第53話 玉座の王
参内の日。辺境から出てきた父ガイウスが、王都のタウンハウスを訪れた。
久しぶりに見る父は、旅装を解き、当主としての正装に身を包んでいた。その表情は、いつになく硬い。
「ルキ。——覚悟は、できておるか」
「……はい、父上」
父はワタシをじっと見て——それから、ふっと息を吐いた。
「正直に言う。——わしも、王宮へ呼ばれるのは久方ぶりだ。気が重い。だが——お前を一人で行かせるよりは、ましだ」
その言葉に、ワタシは、はっとした。
父は——叱責こそすれ、いざという時には、こうして共に立ってくれる。当主として家を守るためでもある。けれど——それだけでは、ない気がした。
「……父上。ご迷惑を、おかけします」
「ふん。——今さらだ」
父は、ぶっきらぼうに言った。それから、声を少し落とした。
「ルキ。——向こうで何を言われても、お前はお前の筋を通せばいい。ただし——言葉は選べ。売り言葉に買い言葉は、ならんぞ。相手は——この国の頂だ」
「……はい」
不器用な父なりの助言だった。その奥にある案じる気持ちが——ワタシには、伝わってきた。
こうして、ワタシは父と共に、王宮へと向かった。
*
王宮は——想像を絶する荘厳さだった。
天を衝くような円柱。磨き抜かれた大理石の床。色とりどりの硝子窓から差し込む光。——その、すべてが。見る者を圧倒し、ひれ伏させるために造られていた。
ワタシは、父と共に、長い長い回廊を進んだ。
父は——無言だった。けれど、その横顔は、いつもの豪放な辺境伯のものとは——違っていた。緊張に引き締まった、武人の顔だった。
「ルキ」
謁見の間の扉の前で、父は低く囁いた。
「何があっても——余計なことは言うな。一言が、命取りになる」
「……はい、父上」
ワタシは頷いた。心臓が——早鐘のように打っていた。
*
謁見の間の扉が——重々しく開かれた。
ワタシと父は、案内されるまま、深く頭を垂れ、玉座の前へと進み出た。——顔を伏せたまま、床の大理石だけを見て。許しがあるまで、面を上げることは許されない。
張り詰めた沈黙。——気配だけが、伝わってくる。高い場所に、誰かがいる。そして、その傍らにも——もう一人。
「——辺境伯、ガイウス。ならびに、その子、ルキウス」
しわがれた、年経た声が響いた。けれど——それは、玉座の高さからでは、なかった。その傍らの、やや低い位置から。——発せられていた。
(——王、ではない?)
ワタシの胸が、ざわついた。この場で最初に声を発したのは、王ではない。——誰か、別の者だ。
「面を、上げよ」
その許しの言葉に——ワタシたちは、ようやく顔を上げた。
そして——ワタシは、見た。
高い玉座に、豪奢な衣をまとった人物が——静かに腰を下ろしている。年の頃は、四十がらみだろうか。けれど——その顔は、妙に生気が薄く、どこか疲れた影を宿していた。
王。——この国の、頂に立つ御方。
そして——その玉座の傍らに。先ほど声を発した、一人の老人が、控えていた。
白い聖職者の長衣。そして——その目元を覆う、銀色の仮面。位を象徴する、聖具の類なのだろう。素顔は——窺えない。
痩せた、けれど威厳に満ちた立ち姿。仮面の奥で、ただ——冷たく鋭い、二つの目だけが、光っていた。
(——あれが)
ワタシは、直感した。
大神官、ベルゲン。——ずっと影として、ワタシたちを追い詰めてきた、あの黒幕。——その姿を、ワタシは今、初めて、この目で見たのだ。
全身から放たれる、底知れぬ威圧感。——ボルツ伯爵など、比べ物にならない。この老人一人の存在感が、広い謁見の間を——支配していた。
*
(——王ではなく、あの老人が、最初に口を開いた)
ワタシの胸が、冷たくなった。
この場を仕切っているのは、明らかに——王ではない。大神官だ。王はただ、玉座に座っているだけ。——クラリスティアの言っていた「傀儡」という言葉が、頭を、よぎった。
大神官の視線が——ワタシに注がれた。値踏みするような。心の奥底まで見透かそうとするような。——冷たい視線。
(——この、目)
ワタシは、背筋がぞくりとするのを感じた。
この男は——疑っている。ワタシが何か隠していることを。「人の値打ちを見抜く目」を持つことを。——その確信に近い疑念を、この視線は語っていた。
*
やがて——王が、ようやく口を開いた。
「ルキウス、とやら」
その声は——意外なほど静かで。そして、どこか——力なく響いた。
「そなたの商会。そして、近頃の教会を巡る騒ぎ。——余の耳にも、届いている」
王は、ゆっくりと続けた。
「身分の秩序は、女神の定めたもう、尊き理である。それを揺るがすような行いは——慎むがよい。これ以上、王国の安寧を乱すこと相成らぬ。——よいな」
その言葉は——明らかに、大神官の意を受けたものだった。台本を読むかのような、心のこもらない牽制。
(——やはり)
ワタシは、唇を噛んだ。
王は——大神官の傀儡。その口から出るのは、あの老人の声と、何ら変わらない。——噂や推測では、なく。今、この目で見た、現実として。
ワタシたちをここへ呼んだのは、「王の権威で脅す」ため。——それが、はっきりとわかった。
*
——だが。その時だった。
ワタシは——気づいてしまった。
牽制の言葉を述べる、王。その目が——ほんの一瞬、傍らの大神官を——うかがうように、動いたことに。
まるで——自分の言葉が正しいかどうか、あの老人に——許しを請うように。
(——え)
そして。王の、その瞳の奥に。ワタシは、見た。
——深い、深い諦めと。そして——かすかな。けれど、確かな。——苦悶の色を。
(——この、御方……?)
ワタシは——そっと、鑑定の力を、その王へ、向けた。
危険なことだ、とはわかっていた。この場で力を使うのは。——でも、どうしても確かめずには、いられなかった。あの瞳の奥に見えた、苦悶の正体を。
極限まで細く、絞りに絞って。——ほんの、一瞬だけ。
深くは、視ない。長くも、視ない。——位の高い人ほど、勘が鋭い。視られたことに、気づかれやすい。クラリスティアでさえ、あの時、何かを感じ取りかけた。まして、この場には——あの大神官が、いるのだ。万に一つも、悟られるわけには、いかない。
だから、掠め取れたのは——心の表層の、ほんの断片だけ。けれど。確かに流れ込んできた、その断片は。傀儡の王のものとは、思えなかった。むしろ——縛られ、封じられ、声を奪われた。——囚われ人の、ような。
深く、押し殺された——後悔。叶わぬと知りながら、捨てきれずにいる——何かへの、想い。
(——まさか)
ワタシの頭に——一つの考えが、閃いた。
この王は——ただの、大神官の言いなりの傀儡では、ないのではないか。——本当は。何か別の思いを、胸の奥に——封じこめているのでは。
*
「——御意に、ございます」
ワタシは、深く頭を垂れた。
今は——逆らわない。下手なことを言えば、父まで巻き込む。それに——この場で確かめるべきは、そうではない。
(——あの王の、目)
ワタシの胸は——高鳴っていた。恐怖、とは違う、何かで。
もし。——もし、ワタシの直感が正しいなら。あの王は——敵では、ないかもしれない。むしろ——大神官に囚われた、もう一人の被害者なのかもしれない。
謁見は——ほどなく終わった。
ワタシと父は——王宮を辞した。
帰りの馬車の中。父は、ぽつりと言った。
「……肝が冷えたわ。だが——お前。よく堪えた」
「父上」
ワタシは——窓の外を見つめながら。心の中で、あの王の瞳を——反芻していた。
諦めと、苦悶。——封じられた、何か。
(——あの御方は。いったい——何を抱えているんだ)
大神官という、影の正体を見た謁見。——けれど。ワタシが本当に持ち帰ったのは。
それとは別の——もっと大きな、問いの種だった。




