第51話 届くうねり
ヨハンが釈放されてから。——信仰の戦線は、ワタシの予想を超えて、広がっていった。
一度は異端として捕らえられた老神官。それが、世論の力で解き放たれた。——その事実が、人々の心に、小さな、けれど消えない火を灯したのだ。
*
「本来の、女神さまの教えとは、何か」
その問いは、もはやヨハン一人のものではなかった。
広場で。市場で。酒場で。——人々は、口々に語り合うようになっていた。
「なあ。——『女神は、もっとも小さき者にこそ、手を差し伸べる』。あれが、本当の教えなんだろう?」
「だったら、今の教会は——いったい、何を説いてるんだ?」
「アステリア商会を見てみろよ。あそこがいちばん、女神さまの教えに適ってるじゃないか」
古い聖典の教えに共鳴する者、商会のありようを支持する者。——そういう声が、少しずつ、けれど確実に増えていった。
ヨハンのもとには、志を同じくする若い神官や修道士が、ひそかに集まり始めた。——長く隅に追いやられていた改革派の声が、ようやく息を吹き返していた。
*
「——驚いたものだ」
ある日。ヨハンは、感慨深げに言った。
「私が四十年、口をつぐんでいた間。——諦めていた。本来の教えを取り戻すなど、夢のまた夢だと。——ですが」
ヨハンの目に——光が宿っていた。
「人々は——ちゃんと覚えていたのです。心の奥底で、『弱き者を慈しむ』という、本当の女神さまのお心を。——ただ、それを口にするきっかけがなかっただけ。私の声は、そのきっかけに過ぎません」
ワタシは——胸が熱くなった。
ヨハンが蒔いた種、商会が示した証。それが——人々の心の奥で眠っていた本物の信仰を、呼び覚ましている。
大神官が独り占めしてきた、「女神の代弁者」という座。——その足元が、今、確かに、揺らぎ始めていた。
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——けれど。
事が大きくなるということは、それだけ敵が追い詰められるということでもあった。
「ルキウスさん。——油断は、なりません」
ヨハンは、声を潜めた。
「世論は確かに、こちらへ傾き始めている。——ですが、それは大神官にとって、看過できない事態。あのお方は今、相当に焦っているはずです」
「焦っている……」
「ええ。——これまで教会の内部で握りつぶせていた声が、もう抑えきれぬほど大きくなった。あのお方の思惑を超えて」
ヨハンの目が、翳った。
「追い詰められた者ほど——何をしでかすか、わからない。世論で勝てぬとなれば、あのお方は必ず——別の手を打ってくる。それが何なのか。——私には、まだ読めません」
(——別の、手)
ワタシの胸に、得体の知れない不安が、よぎった。
*
世論の戦いで、こちらが優勢に立った。——それは、確かな前進だ。
けれど。——だからこそ。ワタシには、嫌な予感が、あった。
大神官はこれまで、教会という巨大な力を握りながらも、決して軽々しくは動かなかった。常にボルツ伯爵のような駒を使い、自分は影に潜んで。——慎重に、事を運んできた。
その、あのお方が。——追い詰められている。
追い詰められた、底知れぬ影が、次に何をするのか。——それが見えないことが、何よりも恐ろしかった。
「……まだ、終わりじゃない、ですね」
ワタシが、ぽつりと、こぼすと。ヨハンは、静かに、頷いた。
「ええ。——むしろ、これからが。本当の、正念場、かもしれません」
*
その夜。ワタシは一人、考えていた。
事は——ワタシたちの手を離れて、もっと大きなところへ、動き始めている。
教会。改革派。世論。——いくつもの力が複雑に絡み合い、この国を揺るがす大きな流れに、なりつつあった。
(——ワタシは)
ワタシは、夜空を見上げた。
もはや、一人の辺境の三男が、こっそり奴隷を救う。——そんな小さな話では、なくなっていた。
この国の仕組みそのものを。女神の教えのあり方そのものを。——問い直す。そんな大きな戦いに、ワタシは——足を踏み入れている。
世論は、こちらへ傾いた。——その手応えは、確かにある。
でも。
(——これで、終わりじゃない)
ワタシは、こぶしを握った。
追い詰められた、底知れぬ影。それが、次に、何を仕掛けてくるのか。——それが、見えない。
嵐の前の静けさ。——そんな嫌な予感だけが、じわじわと胸の底に広がっていた。
何かが、来る。——きっと、ワタシたちの、思いもよらない、形で。
その正体がわからないまま。ワタシは——ただ漠然とした不安を抱えて、眠れぬ夜を過ごしていた。




