第50話 灯のともる場所
守りに入った日々は、静かだった。
派手な動きはできない。買い付けは続けているけれど——新たに隷紋を解くことは、控えている。——もどかしさはある。けれど、その分。商会の日常を、ゆっくりと味わう時間が生まれていた。
*
その日。商会の、休憩の時間。
仲間たちは、めいめいに寛いでいた。メイアが新しい薬草茶を淹れ、ラントが年下の子たちに、細工のこつを教えている。年老いたあの元奴隷の女性は——今ではすっかり商会に馴染んで、包み物の合間に、子どもたちの繕い物をしてやっていた。
ささやかな、けれど——温かい光景だった。
「——なあ、旦那」
ニコが、薬草茶をすすりながら言った。
「こうして見てるとよ。——うちも、ずいぶん大所帯になったもんだ。最初は、辺境の、あの鍛冶場でよ。あんたと、おれと、フィーと。——数えるほどしか、いなかったのにな」
「……そうだね」
ワタシは、湯気の立つカップを手に、しみじみと頷いた。
思えば——遠くまで来た。たった一人、こっそり奴隷の鎖を解いていた、あの頃から。——今や、こんなにもたくさんの仲間が、同じ灯を囲んでいる。
*
「そういえば」と、ニコが思い出したように言った。
「辺境から、便りが来てたぜ。——例の、最初に解放した連中からだ」
「! ——みんな、元気にしてる?」
ワタシは、思わず身を乗り出した。
辺境の拠点。——ワタシたちの原点。
いちばん最初に鎖を解いたのは、フィーだった。あれは、屋敷の中でのこと。——けれど、第二、第三と解放を重ね、仲間が増えていくにつれて。秘密の活動には、人目につかない場所が、必要になった。
そこで使い始めたのが——セバスが見つけてきた、領都外れの、打ち捨てられた古い鍛冶場だった。あそこが、ワタシたちの、最初の隠れ家になった。
けれど——さらに人が増えるにつれて、鍛冶場だけでは手狭になった。隣り合う古い納屋や物置に住まいを広げ、それでも足りず——やがて、拠点の奥、森にほど近い一帯を、少しずつ切り拓いていった。畑を作り、家を建て。解放した人たちと、共に。
今では、そこが彼らの新しい暮らしの場だ。ニコとメイアが育てた後継者たちが、切り盛りしてくれている。最初に救った人たちの多くは王都には出ず、あの開拓の地で、新しい暮らしを営んでいた。
「ああ。——元気どころか、よ」
ニコは便りを広げて、にやりと笑った。
「あいつら。——すっかり根を下ろしてる。畑を耕して、家畜を飼って。——小さな村みたいになってるらしいぜ。中にゃ、所帯を持った奴もいてな。——去年、赤ん坊が生まれたんだとよ」
(——赤ん坊)
ワタシの胸が——じんわりと温かくなった。
かつて鎖につながれ、明日をも知れぬ身だった人が。今は——土を耕し、家族を持ち、新しい命を育んでいる。
奴隷だった頃には、望むことすらできなかった未来。それをあの人たちは——自分の手で、掴み取っているのだ。
*
「便りには、こう書いてあったぜ」
ニコが、便りの一節を読み上げた。
「『ルキさまへ。おかげさまで、私たちは毎日、しあわせに暮らしています。生まれた娘は——胸を張って生きていけるよう、育てます。いつか、この子が大きくなったら、教えてやりたい。お前は、たくさんの人の優しさの上に、生まれてきたのだ、と』」
便りには万一に備えて、互いに、際どい言葉は書かない決まりだ。「自由」も、「隷紋」も、そこには一言もない。——それでも。行間から、あふれてくるものが、あった。
ワタシは——言葉を失った。
目の奥が——熱くなる。
ワタシが辺境で蒔いた小さな種。それは、ワタシの知らないところで——こんなにも大きく、こんなにも温かく、実を結んでいた。
一人を救う。それは——その人一人の人生だけを変えるんじゃない。その人が築く家族。生まれてくる子ども。——その、すべての未来を照らすことなのだ。
(——ああ)
ワタシは、込み上げるものをこらえながら、思った。
(——ワタシのしてきたことは。——間違って、いなかった)
*
「……いい便りだね」
ワタシがようやく、そう言うと。フィーが、そっと隣に来た。
「ルキさま。——わたしも。あの子たちと、同じです」
「フィー?」
「ルキさまにもらった自由を——大切に生きてます。毎日、しあわせです。——だから」
フィーは、はにかみながら。けれど、まっすぐに言った。
「ルキさまのしてきたことは——たくさんのしあわせを、生みました。それは——絶対に、間違ってなんか、いません」
(——フィー)
ワタシは——胸がいっぱいになった。
守りに入って、動けない日々。「これでいいのか」と、迷うこともあった。
でも。——この灯は確かに、たくさんの人の暮らしを、家族を、未来を——照らしている。
それを守るためなら。——今、耐えることにも、きっと意味がある。
*
その夜。ワタシは、辺境への返事をしたためた。
『便り、ありがとう。——赤ん坊の誕生、心からおめでとう。どうか、その子に、たくさんの愛情を』
——そして、自由の尊さを。……そう書きかけて、ワタシは筆を止めた。それは、便りには書けない言葉だ。でも——書かなくても、きっと、届いている。
筆を置いて、ワタシは、窓の外の夜空を見上げた。
遠い辺境の空にも——きっと、同じ星が瞬いている。
あの土地で、今しあわせに眠っている人たちがいる。ワタシたちの灯から分かれた小さな灯が、あちらでも確かにともっている。
(——守りたい)
ワタシは、改めて思った。
この灯を。辺境の灯も、王都の灯も。——一つ残らず。
たとえ、どんな大きな影が、立ちはだかろうとも。
(——ワタシは、守ってみせる)
その決意は、静かに、けれど揺るぎなく——ワタシの胸に、ともっていた。




