幕間 大神官の秩序 ベルゲン視点
私、大神官ベルゲンは——この国を、誰よりも愛している。
愚かな民は、私を冷酷だと言うだろう。権力に固執する老人だと。——だが、それは。何もわかっていない者の戯言だ。
私はただ——秩序を守っているに過ぎない。
*
考えてもみよ。
もし、この世から身分が消えたら、どうなる。
卑しき者が分をわきまえず、己の器を超えたものを望み始める。秩序は乱れ、欲が欲を呼び——やがて国は、血で血を洗う混沌に堕ちる。
私は、それを——知っている。
遠い昔、この国も一度、その混沌を味わった。身分の垣根が揺らぎ、民が思い上がり——国は内乱で焼かれた。数えきれぬ命が、失われた。
あの悲劇を、二度と繰り返してはならぬ。
だから——私は秩序を敷いた。「身分は、女神の定めたもの」と説いた。一人ひとりが己の分をわきまえ、定められた場所で生きる。——それでこそ、国は安んじる。
奴隷の鎖さえも——私に言わせれば、慈悲だ。
考えることを知らぬ愚かな者に、「お前は、ここにいればよい」と役割を与えてやる。それは——彼らを、過酷な自由の選択から守ってやることでもあるのだ。
鎖は、慈悲。——私は本気で、そう信じている。
*
——だが。近頃、その私の秩序を脅かす者どもが、現れた。
まず、あの——ヨハンとかいう、老いぼれの神官だ。
「本来の女神の教えを取り戻す」などと、古い聖句を振りかざし、民を扇動している。——愚かな。古い教えなど、混沌の時代の遺物に過ぎぬ。私が教義を整えたからこそ、この国は千年の安寧を得たのだ。
あの老いぼれを、異端として葬ろうとしたが——おかしなことに、民の声が、それを阻んだ。
(——民が、声を上げた、だと?)
これは——由々しき事態だ。
羊は、羊であればよい。羊が己の頭で考え始めること。——それこそが、秩序の崩壊の始まりなのだから。
*
そして——もう一つ。あの忌々しい商会だ。アステリア商会。
行き場のない者を集め、卑しき者に職を与え——「身分を超えて、人は生きられる」などという危険な幻想を、民に植え付けている。
私が糾弾しても、ボルツ伯爵が潰そうとしても——あの商会はしぶとく生き延び、むしろ勢いを増している。
なぜだ。——なぜ、あんな小さな商会が、これほど上手く立ち回れる。
(——あの商会の、主)
私の脳裏に、一つの報告が蘇る。
アーデルハイト辺境伯の三男。——その子どもには、妙な噂がある。「買う奴隷、買う奴隷、まるで値打ちを見抜くように、掘り出し物ばかり引き当てる」と。「人の本質を見透かす目を持つ」と。
(——人の値打ちを、見抜く目)
私の胸に——かすかなざわめきが走った。
まさか。——いや。
その、人智を越えた目。もし噂がまことなら——それは、常人に宿るものではない。神の恩寵。——そう呼ぶほかない、力だ。
(——恩寵、か)
私は、知っている。人の身に、人ならざる力が宿ることが——確かに、ある、ということを。
もし、あの子どもが、そういう「何か」を授かっているとしたら。
(——面白い)
私の唇が、冷たく歪んだ。
恩寵を授かった者が、よりにもよって——私の秩序を脅かす側に立っているとは。
*
いや。——まだ断定はできぬ。
ただの噂かもしれぬ。商才に長けただけの小僧かもしれぬ。
だが——気になる。あの商会の不可解な成功。あの子どもの、得体の知れなさ。——調べる価値は、ある。
「——誰か」
私は、闇の中に控える影に命じた。
「アーデルハイトの三男を——より深く探れ。あの子どもが何者で、何を隠しているのか。——根こそぎ暴き出すのだ」
「は」
影が、音もなく消えた。
私は一人、薄暗い聖堂で、冷たい女神像を見上げた。
「……女神よ」
私は呟いた。
「私のしていることは、間違っておりますまい。——秩序を守ること。それこそが、あなたの御心のはず」
女神像は——何も答えない。ただ静かに、慈愛に満ちたはずの微笑みを、こちらに向けているだけだった。
その微笑みが——どこか、私を責めているようにも見えたことを。
私は——あえて、気づかぬふりをした。




