幕間 わたしのはたいせつなもの フィー視点
わたしには昔——名前が、なかった。
いえ。あったのかもしれない。でも——奴隷だった頃のわたしには、それを思い出すことも許されなかった。ただの「商品」。番号で呼ばれるもの。それが、わたしだった。
ルキさまが——「フィー」と、名前をくれた。
それが、わたしのはじめての、もの、だった。
*
今のわたしは、たくさんのはじめてに囲まれている。
あたたかい寝床。おなかいっぱいのごはん。——そして。「ありがとう」と言ってもらえること。「あなたが大事だ」と言ってもらえること。
奴隷だった頃には考えられなかった。——わたしが、誰かに必要とされるなんて。
でも、今は。商会で働いて、みんなの役に……いえ。
(——役に立つ、立たない、じゃ、ない)
わたしは、心の中で言い直した。
ルキさまが教えてくれた。「役に立つから大事なんじゃない。フィーが、フィーだから大事なんだ」と。——だから、わたしはただ、ここにいる。みんなと一緒に。それでいいのだ、と。
*
この国を変えようとする道には——とても大きな壁があると。ルキさまは言った。
怖くないと言えば、嘘になる。このしあわせな日々が、また壊されてしまうのではないか。——そう思うと、胸がぎゅっとなる。
でも。わたしは——決めている。
ルキさまの隣に、いる。——どんなに怖くても。何があっても。
あの日。「あなたの自由を、ルキさまのために使うと決めた」と言った。あれは、誰かに言わされた言葉ではない。——わたしが自分で、はじめて自分の意思で選んだこと。
奴隷のわたしには、「選ぶ」ことなど、できなかった。——でも、今のわたしは、選べる。だから、わたしは選ぶ。ルキさまの隣を。
*
……ルキさまのことを考えると。
わたしの胸は、あたたかくなって——少しだけ、せつなくなる。
この気持ちが、なんなのか。わたしには、まだ、よくわからない。
ただ。ルキさまが笑うと、わたしもしあわせになる。ルキさまが疲れていると、わたしが支えたくなる。ルキさまがいない毎日なんて——もう、考えられない。
これが——「すき」という、ことなのかな。
わからない。でも——大事にしたい。この気持ちを。わたしのはじめての、この想いを。
*
——時々。不思議なことが、ある。
ルキさまの商会で、貴族のクラリスティアさまと話していると。——なぜか懐かしいような、あたたかいような、不思議な感覚になる。
クラリスティアさまの所作。言葉づかい。気高いけれど優しい、その佇まい。——それを見ていると、胸の奥がきゅう、とする。
まるで——遠い遠い昔。わたしもあんなふうに、誰かに傅かれていたような。——そんなありえないことを、ふと思ってしまう。
(——変なの)
わたしは、首をかしげた。
奴隷だったわたしが、貴族のような暮らしをしていたわけがない。きっと——気のせいだ。
でも。その感覚は時々、ふいに訪れて——わたしを戸惑わせる。
まるで、わたしの忘れてしまった——どこか遠い記憶が、静かに何かを訴えているかのように。
*
わからないことは、たくさんある。
この想いの名前も。あの不思議な感覚の正体も。
でも——一つだけ、確かなことがある。
わたしは。ルキさまと、みんなと。このあたたかい場所を、守りたい。
その壁が、どんなに大きくても。——わたしは、退かない。
もう、何も選べなかった、あの頃のわたしじゃない。
わたしは——自分の足で立っている。自分の意思で、ここにいる。
(——ルキさま)
わたしは窓辺で、夜空を見上げた。
(——わたし、頑張ります。あなたの隣で。あなたと、みんなの灯を、守るために)
星が——やさしく瞬いていた。
まるで、わたしの決意を、そっと見守っているかのように。




