第46話 古き聖句
家族が辺境へ帰った、数日後。
ワタシはヨハンと、再び会っていた。商会の奥の、人目につかない一室。改革派の神官と、糾弾されている商会の主。——もし見られれば、ただでは済まない組み合わせだ。
「ヨハンさん。——教会の糾弾は、強まる一方です。何か、手を打たなければ」
「ええ」と、ヨハンは頷いた。その穏やかな顔に、固い決意が滲んでいた。
「ですから——私は決めました。声を上げます。——本物の女神さまの教えを、人々に思い出してもらうために」
*
ヨハンの策は——信仰の土俵で戦うことだった。
「敵は、『女神の秩序』を盾にしています。『身分は女神の定めた秩序。それを乱す者は冒涜者だ』と。——ならば私たちは、問い返すのです。『それは本当に、女神さまのお言葉か』と」
ヨハンは、一冊の古い書物を取り出した。色あせ、擦り切れたそれは——よほど古い時代の、聖典の写本だった。
「これは、私が長年、隠し持ってきたものです。——今の教会が、表向きにはもう使わなくなった、古い聖典。そこには——こう、記されています」
ヨハンはページを開き、指で一節をなぞった。
「『女神は、もっとも小さき者、虐げられし者にこそ、手を差し伸べたもう』——」
(——っ)
ワタシの胸が震えた。
それは。何度聞いても——ワタシの知る、本物の女神アステリアの心、そのものだった。
「本来の女神さまの教えは、弱き者を慈しむこと。——それを今の教会は、『身分を守れ』『卑しき者は卑しきまま』と捻じ曲げた。——私は、それを元に戻したいのです」
*
「ですが——ヨハンさん」
ワタシは案じた。
「そんなことを公にすれば、あなたは——大神官に目をつけられる。改革派は、これまで『異端』として潰されてきた、と。——危険すぎます」
「承知の上です」
ヨハンは、静かに微笑んだ。
「私はもう、若くはありません。残りの人生を——保身のために口をつぐんで生きるか。それとも——本物の女神さまの教えのために、声を上げて死ぬか。——私は、後者を選びたい」
その覚悟に、ワタシは言葉を失った。
「それに」と、ヨハンは続けた。「私一人の声では、ないのです。——あなたの商会が、あります」
「商会、が?」
「ええ。——いくら私が『弱き者を慈しめ』と説いても、言葉だけでは、人は動かない。——ですが、あなたの商会には。現に、救われ、幸せに働く者たちがいる。——それは、何よりの『生きた証』です」
(——ああ)
ワタシは理解した。
ヨハンの古い聖句。——「弱き者を慈しめ」という、本来の教え。そして、商会の現実。——元奴隷が、誇りを持って、笑って生きている、その姿。
言葉と、現実。教えと、証。——その二つが揃って、初めて。人々の心に、「本当の女神さまの教えとは何か」という問いが、突き刺さる。
*
数日後。ヨハンは——動いた。
王都の、とある広場。説教の場で。彼は人々に向かって、あの古い聖句を、朗々と読み上げた。
「——『女神は、もっとも小さき者にこそ、手を差し伸べたもう』。皆さん。これが、本来の女神アステリアさまの、お言葉です。弱き者を虐げ、見捨てることが——どうして、女神さまのお心でありましょうか」
集まった人々が、ざわめいた。
「あの商会は、女神への冒涜だと言われています。——ですが。行き場のない者に手を差し伸べる、それのどこが冒涜なのか。——むしろ、それこそが、女神さまの本当の教えに適うことでは、ないでしょうか」
人々の間に、動揺と戸惑いが広がっていく。
これまで当たり前と思っていた、「教会の教え」。それに——初めて、別の声が投げかけられた。
「教会の言うことと、違うぞ……?」
「どっちが、本当の女神様の教えなんだ……?」
そのざわめきこそが——ヨハンの狙いだった。
*
ワタシは、人混みの中から、その様子を見ていた。
信仰の戦線が——今、開かれた。
大神官が独り占めしてきた、「女神の代弁者」という座。その正統性に、ついに——異を唱える声が、上がったのだ。
(——でも)
ワタシは同時に、背筋に冷たいものを感じていた。
これは——大神官への、明確な宣戦布告だ。あの男が、黙って見過ごすはずがない。ヨハンにも、そして——ワタシたちにも。必ず、報復が来る。
しかも。ワタシがこの戦いに前のめりになるほど——あの「見えてはいけないものが見える目」を持つ、ワタシ自身に。大神官の目が向く危険も、増していく。
(——慎重に。でも、退かない)
ワタシはこぶしを握った。
怖い。けれど——ここで退いては。ヨハンの覚悟も、商会の仲間の笑顔も、すべてが無駄になる。
本物の女神さまの心を、この国に取り戻す。——その戦いは。
今、確かに——始まったのだ。




