第44話 氷の生まれた場所
ルキの家族が、王都に滞在していた——ちょうど、その頃。
わたくし、クラリスティア・オルブライトもまた、同じように、家との問題を、抱えていた。
父、オルブライト侯爵からの呼び出し。——それが何を意味するかは、呼ばれる前から、わかっていた。
*
オルブライト侯爵家の、王都屋敷。
その広く、冷え冷えとした執務室で、わたくしは父と向かい合っていた。
父は——感情を見せない人だ。
声を荒らげたりは、しない。ただ静かに、冷たく、こちらを値踏みするように見る。——その方が、よほど恐ろしいことを、わたくしは幼い頃から知っていた。
「クラリスティア」
父の声は、氷のように平坦だった。
「お前が肩入れしている、アステリア商会とやら。——教会から、女神への冒涜と糾弾されている。知っているな」
「……はい。お父様」
「お前は社交の場で、あの商会をずいぶん持ち上げて回ったそうだな。『面白い商会だ』と。——その商会が、今や王国中の笑いもの、いや、危険分子だ。オルブライト家の名に、どれほどの傷がつくか。——わかっているのか」
わたくしは、唇を引き結んだ。
*
「お前は、オルブライト家の、ただ一人の娘だ」
父は続けた。
「いずれ、しかるべき家から、婿を迎え——この家を、継がせる。それが、お前の、果たすべき務め。——その、大切な、嫁入り前の身で。得体の知れない商会の後ろ盾などになって、家の品位を貶める。良い縁談が、まとまるものも、まとまらなくなる。——その自覚が、あるのか」
縁談。——その言葉に、わたくしは、内心で、身を硬くした。
そう。父が、わたくしに、求めているのは。家のために、有力な貴族の家と、結ばれること。わたくし自身の、心など、そこには、関係ない。——昔から、ずっと、そうだった。
「……お父様」
わたくしは静かに、口を開いた。
「あの商会は——得体の知れないものでは、ありません。行き場のない者に職を与え、真っ当な商いをしている。——わたくしは、その理念に共感したのです」
「理念?」
父の眉が、わずかに動いた。そして——冷ややかに笑った。
「理念。——くだらん。お前は昔からそうだ。『奴隷も同じ人間だ』だの。『身分のあり方はおかしい』だの。——子どもの戯言を、いつまで引きずっている」
(——ああ)
その言葉に、わたくしの胸の奥が、きしむような音を立てた。
子どもの戯言。——そう。この家では、いつもそうだった。
わたくしが心からの思いを口にするたび、父は冷たく笑い、切り捨てた。「貴族の娘が、何を世迷い言を」と。
だから——わたくしは心を閉ざした。氷の仮面を被った。本当の思いを、誰にも見せないように。——この冷たい家で生き延びる、ために。
*
「いいか、クラリスティア」
父は、最後通牒のように言った。
「あの商会から手を引け。後ろ盾を降りるのだ。——そして、二度と関わるな。これは、当主としての命令だ」
わたくしは——俯いた。
昔のわたくしなら、ここで黙って従っていただろう。「はい、お父様」と。心を殺して。仮面の下に、本心をしまい込んで。
——けれど。今のわたくしは、違った。
あの夜の図書館で、「ワタシも、同じことを思っています」と言ってくれた少年がいる。氷を溶かしてくれた温もりがある。一人ではないと——教えてくれた仲間が、いる。
だから——わたくしは、顔を上げた。
「——お断りいたします。お父様」
*
父の表情が、初めて、ぴくり、と動いた。
「……なんだと?」
「わたくしは、あの商会から手を引きません」
わたくしはまっすぐ父を見て言った。声は震えていた。けれど、退く気はなかった。
「あそこで働く人たちを、わたくしはこの目で見ました。買われてきた奴隷もいる。行き場のなかった者もいる。——その人たちが、あの商会では一人の人間として扱われ、今、誇りを持って、笑って生きている。——あれのどこが、『家の品位を貶める』ことなのですか」
「クラリスティア。お前——」
「わたくしは信じています。人を慈しむことは、恥ではありません。——たとえお父様に勘当されても。わたくしは、この信念だけは曲げません」
執務室に、凍りつくような沈黙が落ちた。
父はしばらく——信じられないものを見る目で、わたくしを見ていた。
その娘が。あの、何を言っても俯くだけだった娘が。初めて、自分に真っ向から逆らった。——その事実に、父は言葉を失っていた。
*
長い沈黙のあと。父は——ふっと息を吐いて、背を向けた。
「……勝手にしろ」
「お父様」
「だが、覚えておけ。——何かあれば、オルブライト家はお前を守らん。すべて、お前の自己責任だ。——下がれ」
わたくしは深く一礼して、執務室を後にした。
扉を閉めた、その瞬間。——わたくしの膝が、かくん、と震えた。
怖かった。本当は。——父に逆らうのは、生まれて初めてのことだった。
でも。
(——言えた)
わたくしは廊下の壁に背を預けて、深く息を吐いた。
言えたのだ。本当の思いを。氷の仮面を脱いで。——父の前で。
(——あなたのおかげよ。ルキウス)
わたくしは、心の中でそっと呟いた。
あなたがいなければ、わたくしは今も、氷の仮面の下で、一人、凍えていただけだった。
窓の外。冷たい空気の中に、それでも——かすかに、春の気配が混じり始めていた。
氷は——溶け始めている。わたくしの中で、確かに。




