第40話 もう一つの声
教会の糾弾は、日に日に強まっていった。
立て札だけではなかった。説教の場で、神官たちがアステリア商会を名指しで非難する。「あの商会に関わる者は、女神の罰を受ける」と。——人々の不安は煽られ、商会の客足は、目に見えて落ちていった。
どう反撃するか。ワタシは頭を悩ませていた。
相手は、信仰だ。理屈や商売の知恵だけでは——崩せない。信仰には、信仰で応えるしかない。けれど、ワタシはただの商人の子。教会に立ち向かう術など——。
そんな時。思いがけない人物が、ワタシを訪ねてきた。
*
その人は、質素な神官服をまとっていた。
歳の頃は、五十がらみ。穏やかな、けれど芯の強そうなまなざし。——本物の聖職者の風格があった。
「突然の訪問を、お許しください。——私は、ヨハン。しがない、一介の神官です」
「神官さま、が。——ワタシに、何のご用でしょう」
ワタシは警戒した。教会の人間が、糾弾のさなかに訪ねてくる。——敵か、と。
けれど、ヨハンと名乗ったその神官は、静かに首を横に振った。
「警戒なさるのも、無理はありません。——ですが、どうか聞いてください。私は……今の教会のやり方に、深い疑問を抱いている、一人なのです」
(——え)
「あなたの商会への、あの糾弾。『卑しき者を引き上げるは、女神への冒涜』——あれは、本当に、女神アステリアさまのお心でありましょうか」
ヨハンの声には、静かな、けれど確かな怒りがこもっていた。
*
「女神アステリアさまは、慈愛の女神です」
ヨハンは語った。
「古い聖典には、こう記されています。『女神は、もっとも小さき者、虐げられし者にこそ、手を差し伸べたもう』と。——弱き者を慈しむ。それこそが、本来の女神さまの教えなのです」
(——っ)
ワタシの胸が震えた。
それは——ワタシが知っている、本物の女神さまの心、そのものだった。
「ですが、今の教会は」と、ヨハンは続けた。「いつしか、その教えを捻じ曲げてしまった。『身分は女神の定めた秩序』『卑しき者は卑しきまま、あるべし』——そんな教えを説くようになった。まるで、誰かが都合よく、教義を書き換えたかのように」
「……誰かが」
「ええ」
ヨハンの目が、翳った。
「教会の上層部。——その、さらに奥に。本来の女神さまの教えを捻じ曲げ、信仰を権力の道具に変えてしまった存在が、いる。私たちのような、古い教えを守ろうとする者は——『異端』として隅に追いやられ、声を奪われてきました」
ワタシは息を呑んだ。
教会は——一枚岩では、なかったのだ。
女神の名を権力の道具にする、保守派。そして——本来の慈愛の教えを守ろうとする、ヨハンのような人々。その二つの声が、教会の中で、せめぎ合っている。
*
「私は」と、ヨハンはまっすぐワタシを見た。
「あなた方の商会の噂を聞いて——もしや、と思ったのです。行き場のない者に手を差し伸べ、弱き者を慈しむ。それは——私たちが取り戻したいと願う、本来の女神さまの教えと、同じではないか、と」
ヨハンは、深く頭を下げた。
「どうか。——力を合わせては、いただけませんか。あなた方の行いと、私たちの信仰を。——本物の女神さまの心を、この国に取り戻すために」
(——ああ)
ワタシは、胸が熱くなるのを感じた。
一人では、ない。教会という巨大な敵の、その内側にも。同じ心を持つ味方が、いた。
ワタシは、ヨハンの手を取った。
「——こちらこそ。お願いします、ヨハンさん。ワタシも……本物の女神さまの心を、この国に取り戻したいんです」
ヨハンの皺深い顔が、ほっとゆるんだ。
*
ヨハンは帰り際、声を潜めて、こう言った。
「一つだけ。——警告を」
「警告?」
「あなた方を糾弾している、その出どころ。——教会の頂にいる、お方です。大神官、ベルゲン猊下。——王国評議会をも意のままに操る、この国の真の支配者と、いっていい」
(——大神官)
ついに——その名が。
顔の見えなかった影。ボルツ伯爵すら、駒に過ぎなかった、その本体。クラリスティアがずっと「いる」と言っていた、巨大な存在。
それが——大神官ベルゲン。教会と国家の、両方を握る男。
「……あのお方に逆らうことが、何を意味するか。——どうか、覚悟だけは、なさってください」
ヨハンの、その言葉を残して。
ワタシは、初めて——倒すべき敵の輪郭を、はっきりと知った。
(——大神官、ベルゲン)
ワタシたちの戦いは、ついに——この国の頂にいる影との戦いに、なろうとしていた。




