第39話 女神の名のもとに
それは、一枚の立て札から始まった。
ある朝。王都の広場や辻に、いくつもの立て札が掲げられていた。教会の紋章入りの、厳めしい布告だ。
『アステリア商会の行いは、女神アステリアの定めたもう聖なる秩序に背くものである。身分の理を乱し、卑しき者を不相応に引き上げる、その所業。あまつさえ、畏れ多くも女神の御名を、その看板に掲げるとは。——まさに、女神への二重の冒涜なり』
それを読んだワタシは、背筋がひやりとするのを感じた。
(——とうとう、教会が)
しかも、狡猾だった。慈善の店が女神の名を戴くのは、この国では、ありふれた敬意の慣習のはず。なのに教会は、その名前ごと、「冒涜」の口実に変えてしまった。「女神の御名を掲げながら、女神の秩序に背く不届き者」——そういう筋書きに、仕立て上げたのだ。
*
ボルツ伯爵の妨害とは、次元が違った。
ボルツのそれは、しょせん商売のいざこざ。金と人脈の戦いだった。けれど——これは。「信仰」を盾にしてきた。
この国の人々にとって、女神アステリアへの信仰は、暮らしの根っこだ。その女神の名で「冒涜」と断じられること。それが、どれほど重いことか。
効果は——すぐに現れた。
これまで商会をひいきにしてくれた市民の中にも、立て札を見て、不安げに足を遠のかせる者が出てきた。「女神様に背く商会だったのか」「関わると、罰が当たるかも」——そんな囁きが、広がっていく。
商会で働く仲間たちも、動揺を隠せなかった。
「ルキさま……わたしたちは、女神様に背いているのでしょうか」
不安げに問うメイアに、ワタシは首を横に振った。
「違う。——絶対に、違う」
ワタシははっきりと言った。
「人を慈しむ。弱き者に手を差し伸べる。——それの、どこが冒涜なものか。むしろ本物の女神さまなら、きっと喜んでくださる。ワタシは——そう、信じてる」
*
その夜。ワタシは一人、考えていた。
女神アステリア。——ワタシは知っている。本物の彼女を。あの、おっちょこちょいで、でも誰より優しい女神さまを。
あの女神さまが。「卑しき者を引き上げるな」「身分の秩序を守れ」なんて。——言うはずが、ない。
(——これは、おかしい)
ワタシは確信していた。
教会が掲げる、その「女神の教え」は。本物の女神さまの心とは、まるで違う。——誰かが、女神の名を利用して、自分たちに都合のいいように捻じ曲げているのだ。
身分の秩序を守りたい者。奴隷制で潤う者。——その欲のために、女神さまの名を汚している。
(——許せない)
ワタシの胸に、静かな怒りが灯った。
女神さまの名を。よりにもよって、人を縛る鎖の口実に使うなんて。
*
翌日。ワタシはクラリスティアと落ち合った。教会の動きについて、知恵を借りるために。
「教会が、布告を出した」
その話をすると、クラリスティアの表情が険しくなった。
「……いよいよ、ね。——でも、ルキウス。よく考えて。なぜ、今なのか」
「今?」
「ええ」
クラリスティアは声を潜めた。
「教会がこんな大々的な布告を出すには、相応の決定がいる。一介の神官の一存では、できないこと。——つまり、これは。教会のかなり上のほうが、あなたの商会を明確に『敵』と定めた、ということ」
(——上のほう)
ワタシの脳裏に、あの言葉が蘇った。
ボルツ伯爵の、さらに上。貴族と教会を束ね、評議会すら操る——顔の見えない存在。
「クラリスティアさん。——もしかして、これは」
「ええ。——たぶん、あなたの想像している通りよ」
クラリスティアは、硬い声で言った。
「ボルツ伯爵のような末端では、ない。——もっと上。教会の奥の奥にいる、誰か。その者が——ついに、あなたたちを直接潰しにかかり始めた。そういうことだと、思うわ」
*
ワタシはしばらく、言葉を失った。
顔の見えない影。クラリスティアが、ずっと「いる」と言っていた、その存在。
ボルツ伯爵すら駒に過ぎない、と彼女は言った。その本体が——今、教会という巨大な力を使って、ワタシたちに牙を剥き始めた。
(——でも)
ワタシはこぶしを握った。
怖くない、と言えば、嘘になる。相手はあまりにも大きい。この国の信仰そのものを握る、存在だ。
けれど。
ワタシには、本物の女神さまの心がわかる。そして——共に戦ってくれる仲間がいる。クラリスティアが、いる。
「……戦います」
ワタシは静かに言った。
「女神さまの名を汚して、人を縛る口実にする。——そんなこと、許せない。ワタシは、本物の女神さまの心を。——この国に、取り戻したい」
クラリスティアはワタシを見て、それから——少しだけ眩しそうに、目を細めた。
「……あなたは本当に。——とんでもないことを、さらりと言うのね」
その声は。けれど、どこか——嬉しそうでも、あった。
顔の見えない影が、ついに動き出した。
ワタシたちの戦いは——いよいよ、この国のいちばん深いところへ、踏み込もうとしていた。




