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第35話 攫われた灯

 その日、ラントが帰ってこなかった。


 ラントは、王都でいちばん最初に、ワタシが救った少年だった。鍛冶の才を持つ、無口な子。今では、商会の細工物を支える立派な働き手に育っている。首にはいつも、スカーフを巻いて。あの隷紋の痕を隠すために。


 そのラントが、商会の使いに出たまま、夜になっても戻らなかった。


「——おかしい」


 ニコの顔が、こわばった。


「ラントは、生真面目な奴だ。寄り道なんかしねえ。それが、こんな時間まで——」


 その時。商会の戸口に、一通の文が差し込まれた。


 差出人はない。けれどワタシは、それを読んで——血の気が引いた。


『預かりものは、丁重に扱っている。返してほしくば、商会の主が一人で来られたし。——他言無用。仲間を連れてくれば、預かりものの命はない』


 文には、場所と刻限が記されていた。


(——ラントが)


 ワタシの手が震えた。


 攫われた。ワタシの救った、あの子が。——ワタシのせいで。



「……罠だ」


 文を覗き込んだニコが、低く唸った。


「ボルツ伯爵だな。間違いねえ。——旦那をおびき出すための罠だ」


「ああ。——わかってる」


 ワタシは奥歯を噛んだ。


 わかっている。これが罠だということくらい。ボルツ伯爵は、ワタシを焦らせて引きずり出そうとしている。一人で来い、というのは——ワタシを孤立させ、隙を突くため。


 いや。それだけではない。


(——ワタシの力を、見たいんだ)


 ワタシは悟っていた。


 ボルツ伯爵は、ワタシが「何か特別なものを隠している」と疑っている。だから——ワタシを追い詰めて、窮地でその「隠した力」を使わざるを得ない状況に、追い込もうとしている。焦った人間は、ぼろを出す。——それを狙っているのだ。


 もしワタシが、ラントを助けるために全力の魔法を使えば。その瞬間、ワタシの正体は露見する。「平凡な三男」の仮面は、剥がれ落ちる。


 それこそが、敵の思う壺だった。


「だから——旦那。行っちゃならねえ」


 ニコが、必死の形相で言った。


「これは罠だ。行けば、嵌められる。——ラントには悪いが、ここは別の手を……」


「ニコ」


 ワタシは静かに、彼を遮った。


「——ワタシは、行くよ」



「ラントは、ワタシが救った子だ」


 ワタシは言った。声は震えていた。けれど、心は決まっていた。


「ワタシがあの子の鎖を解いた。ワタシがあの子に、『もう、自由だ』と言った。——なのに、ワタシのせいで、あの子がまた鎖につながれてる。そんなの——許せるわけ、ない」


「だけど、旦那! 正体がバレたら——」


「わかってる」


 ワタシは頷いた。


「だから——力は、使わない。最後まで『平凡な三男』のまま。知恵と、できる範囲のことだけで。——ラントを、助け出す」


 それがどれほど無謀なことか、ワタシにもわかっていた。


 全力を出せば、ボルツの手の者など一瞬で片づけられる。でも、それはできない。力を封じたまま、罠とわかっている場所へ、丸腰同然で踏み込む。——これほど危険なことはない。


 でも。


(——それでも、行く)


 ワタシの戦いは、最初からそうだった。


 力を隠したまま。誰にも気づかれず。それでも、手の届く範囲の一人を救う。——ラントは、その「一人」だ。見捨てるなんて、できない。


「——ニコ」


 ワタシは彼を見た。


「一つだけ、頼みがある。ワタシは文の通り、一人で行く。——でも、君はこっそり、セバスとクラリスティアさんに、これを伝えてほしい。『ボルツ伯爵が、商会の者を攫い、ワタシをおびき出した』と」


「……それは」


「ワタシは一人で踏み込む。でも——本当に、いざという時のために。動ける味方には、状況を知らせておきたい。——ワタシはもう、一人で何もかも抱え込むのは、やめたんだ」


 その言葉に、ニコは、はっとした顔をした。


 ——フィーの、お茶の夜。ワタシが学んだこと。一人で背負わない。支えてくれる仲間を、信じる。


「……わかった」


 ニコは、ぐっと唇を噛んで頷いた。


「必ず、伝える。——だから、旦那。絶対に無茶はするなよ。生きて帰ってこい。ラントと一緒に、な」


「うん。——行ってくる」



 指定された場所は、王都の外れの、打ち捨てられた倉庫だった。


 夜の闇の中、その建物は、黒々と沈んでいる。中に、複数の人の気配。そして——その奥に、怯えた小さな気配が一つ。


(——ラント。今、助ける)


 ワタシは鑑定で中の様子を探りながら、静かに息を整えた。


 罠だとわかっている。力を使えば、正体がバレる。使わなければ、危険すぎる。——その綱渡りの中で、ワタシはあの子を助け出さなければならない。


 ワタシはこぶしを握り、そして——一歩、闇の中へと踏み出した。

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