第35話 攫われた灯
その日、ラントが帰ってこなかった。
ラントは、王都でいちばん最初に、ワタシが救った少年だった。鍛冶の才を持つ、無口な子。今では、商会の細工物を支える立派な働き手に育っている。首にはいつも、スカーフを巻いて。あの隷紋の痕を隠すために。
そのラントが、商会の使いに出たまま、夜になっても戻らなかった。
「——おかしい」
ニコの顔が、こわばった。
「ラントは、生真面目な奴だ。寄り道なんかしねえ。それが、こんな時間まで——」
その時。商会の戸口に、一通の文が差し込まれた。
差出人はない。けれどワタシは、それを読んで——血の気が引いた。
『預かりものは、丁重に扱っている。返してほしくば、商会の主が一人で来られたし。——他言無用。仲間を連れてくれば、預かりものの命はない』
文には、場所と刻限が記されていた。
(——ラントが)
ワタシの手が震えた。
攫われた。ワタシの救った、あの子が。——ワタシのせいで。
*
「……罠だ」
文を覗き込んだニコが、低く唸った。
「ボルツ伯爵だな。間違いねえ。——旦那をおびき出すための罠だ」
「ああ。——わかってる」
ワタシは奥歯を噛んだ。
わかっている。これが罠だということくらい。ボルツ伯爵は、ワタシを焦らせて引きずり出そうとしている。一人で来い、というのは——ワタシを孤立させ、隙を突くため。
いや。それだけではない。
(——ワタシの力を、見たいんだ)
ワタシは悟っていた。
ボルツ伯爵は、ワタシが「何か特別なものを隠している」と疑っている。だから——ワタシを追い詰めて、窮地でその「隠した力」を使わざるを得ない状況に、追い込もうとしている。焦った人間は、ぼろを出す。——それを狙っているのだ。
もしワタシが、ラントを助けるために全力の魔法を使えば。その瞬間、ワタシの正体は露見する。「平凡な三男」の仮面は、剥がれ落ちる。
それこそが、敵の思う壺だった。
「だから——旦那。行っちゃならねえ」
ニコが、必死の形相で言った。
「これは罠だ。行けば、嵌められる。——ラントには悪いが、ここは別の手を……」
「ニコ」
ワタシは静かに、彼を遮った。
「——ワタシは、行くよ」
*
「ラントは、ワタシが救った子だ」
ワタシは言った。声は震えていた。けれど、心は決まっていた。
「ワタシがあの子の鎖を解いた。ワタシがあの子に、『もう、自由だ』と言った。——なのに、ワタシのせいで、あの子がまた鎖につながれてる。そんなの——許せるわけ、ない」
「だけど、旦那! 正体がバレたら——」
「わかってる」
ワタシは頷いた。
「だから——力は、使わない。最後まで『平凡な三男』のまま。知恵と、できる範囲のことだけで。——ラントを、助け出す」
それがどれほど無謀なことか、ワタシにもわかっていた。
全力を出せば、ボルツの手の者など一瞬で片づけられる。でも、それはできない。力を封じたまま、罠とわかっている場所へ、丸腰同然で踏み込む。——これほど危険なことはない。
でも。
(——それでも、行く)
ワタシの戦いは、最初からそうだった。
力を隠したまま。誰にも気づかれず。それでも、手の届く範囲の一人を救う。——ラントは、その「一人」だ。見捨てるなんて、できない。
「——ニコ」
ワタシは彼を見た。
「一つだけ、頼みがある。ワタシは文の通り、一人で行く。——でも、君はこっそり、セバスとクラリスティアさんに、これを伝えてほしい。『ボルツ伯爵が、商会の者を攫い、ワタシをおびき出した』と」
「……それは」
「ワタシは一人で踏み込む。でも——本当に、いざという時のために。動ける味方には、状況を知らせておきたい。——ワタシはもう、一人で何もかも抱え込むのは、やめたんだ」
その言葉に、ニコは、はっとした顔をした。
——フィーの、お茶の夜。ワタシが学んだこと。一人で背負わない。支えてくれる仲間を、信じる。
「……わかった」
ニコは、ぐっと唇を噛んで頷いた。
「必ず、伝える。——だから、旦那。絶対に無茶はするなよ。生きて帰ってこい。ラントと一緒に、な」
「うん。——行ってくる」
*
指定された場所は、王都の外れの、打ち捨てられた倉庫だった。
夜の闇の中、その建物は、黒々と沈んでいる。中に、複数の人の気配。そして——その奥に、怯えた小さな気配が一つ。
(——ラント。今、助ける)
ワタシは鑑定で中の様子を探りながら、静かに息を整えた。
罠だとわかっている。力を使えば、正体がバレる。使わなければ、危険すぎる。——その綱渡りの中で、ワタシはあの子を助け出さなければならない。
ワタシはこぶしを握り、そして——一歩、闇の中へと踏み出した。




