第31話 石けんの泡
商会を、もっと大きくしたい。
査察をしのいで守りを固めた頃から、ワタシはそう考えるようになっていた。
守るだけでは、じり貧だ。商会が大きくなり、王都になくてはならない存在になればなるほど、ボルツ伯爵のような連中も、おいそれとは手を出せなくなる。それに——商会が稼げば、それだけ多くの仲間を救える。
(——前世の知識が、使えないかな)
ふと、そう思った。
ワタシには、前世の——高槻陽介の記憶がある。あの頃、当たり前にあった便利なもの。この世界には、まだないもの。それをうまく商品にできれば。
いくつかの案を頭の中で転がしてみて、ワタシは一つ、これは、と思うものに行き着いた。
石けんだ。
*
この世界にも、汚れを落とすものはあった。けれどそれは、灰汁や粗末な脂を使った、ごわごわの、肌が荒れる代物。富裕層しか使わない、高価なものだった。
前世の、きめ細かい、よく泡立つ石けん。あれを、この世界の材料で再現できれば。
ワタシは、メイアの薬房を訪ねた。
「メイア。——ちょっと、相談があるんだ」
ワタシは石けんの作り方を説明した。油脂と灰汁を、ある割合で混ぜ、煮て、固める。香りや、肌に優しい薬草を加える。——前世の知識を、この世界の言葉に置き換えながら。
もちろん、「前世で知った」とは言わない。「こういうもの、作れないかなと思って」と、思いつきを装って。
「……なるほど。油脂と灰汁を、反応させるのですね」
メイアはすぐに理解した。さすが、星五つの薬師だ。
「面白いですね。わたしの薬草の知識と組み合わせれば——肌を傷めない。むしろ肌に良い石けんが、作れるかもしれません」
メイアの目が、きらきらと輝き始めた。
それからメイアは、夢中で試作に取り組んだ。何度も配合を変え、香りを調え——数週間後。ついに、それは完成した。
きめ細かく、よく泡立ち、ほのかに薬草の香りがして、洗い上がりがしっとりする。——この世界にはなかった、上質な石けんが。
*
「——こいつは、売れるぜ」
試作品を手にしたニコが、ニヤリと笑った。
「肌触りが、まるで違う。香りもいい。それに、メイアの薬草入りってのが効くな。『美容と健康に良い石けん』——貴族のご婦人方が、放っておかねえ」
ニコの、商人としての勘は的中した。
アステリア商会の新商品『アステリアの石けん』は——飛ぶように売れた。
まず目をつけたのは、美容に敏感な貴族の女性たち。それが評判を呼び、裕福な商人へ、そして少しずつ、一般の市民へと広がっていった。
商会の売り上げは、ぐんと伸びた。
それだけではない。メイアの提案で、ワタシたちは安価な普及版の石けんも作った。これを、貧しい人々にも手の届く値段で売る。
「石けんで手を洗うだけで、防げる病がたくさんあるのです」
メイアは言った。
「不衛生は、病のもと。安い石けんが広まれば——救える命が、きっと増えます」
(——そうか)
ワタシは、はっとした。
石けんは、ただの儲けの種ではなかった。それは——人々の暮らしを健やかにし、病から命を守る、一つの「薬」でもあったのだ。
メイアの薬師としてのまなざしが、ワタシのただの「商品」の発想を、もっと温かいものに変えてくれた。
*
——けれど。
商会が急に注目を集めるということは。それだけまた、「あの商会は何かおかしい」という目も引き寄せる、ということだった。
「ルキの旦那。——少し、気になることがある」
ある日、ニコが声を潜めた。
「石けんが評判になって、同業の連中が嗅ぎ回ってる。『あの商会は、どうやってあんな上質な石けんを作ってる』ってな。——作り方を探ろうとする動きが、ある」
(——っ)
ワタシは内心で、ひやりとした。
そうだ。これは、前世の知識という、いわば反則だ。この世界の誰も知らない方法。それを商品にすれば——必ず、「なぜ、この商会だけが」と訝しがられる。
目立てば、影が近づく。査察官のあの言葉が蘇った。「まるで最初から、わかっていたかのように」——。
(——さじ加減、だな)
ワタシは考えた。
前世の知識は、強力だ。商会を、いくらでも大きくできる。でも——出しすぎれば。ワタシたちはますます「不可解な、目立つ存在」になり、あの大きな影に、目をつけられる。
力を隠すように。知識もまた——加減して使わなければ、ならない。
「ニコ。——作り方は、徹底して隠そう。それに、急にあれもこれもと新商品を出すのは控える。あくまで『たまたま、いい職人がいる、運のいい商会』。それくらいの顔をしておこう」
「……へへ。なるほどな」
ニコが感心したように頷いた。
「儲けたい。けど、目立ちたかぁない。——難しい綱渡りだな、旦那」
「うん。——でも、それがワタシたちの戦い方だから」
ワタシは苦笑した。
石けんの、白い泡を見つめる。
この、ささやかな泡の一つひとつが。誰かの暮らしを健やかにし、商会を支え、そしていつか、もっと多くの仲間を救う力になる。
——派手じゃない。
でも、こういう地道な工夫の積み重ねが、ワタシたちの灯を、少しずつ確かに大きくしていくのだと。
ワタシはそう、信じていた。




