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第30話 その上に、いるもの

 査察をしのいだ後。ワタシたちは、守りを固め直すことにした。


 あの一件で、はっきりした。ボルツ伯爵は、役所の権力まで使って、こちらの粗を執拗に探してくる。なら——付け入る隙を、一つずつ潰しておかなければならない。


 いちばんの弱みは、はっきりしている。解放した者の首に、隷紋がないことだ。


 本来、隷紋は誰にも消せない。だから、奴隷として雇っているはずの者の首に、その痕がなければ——「消した」と、勘づかれかねない。皮肉なことに、鎖を断ち切った証そのものが、いちばんの弱点なのだ。


 これまでは、解放した者に、それぞれスカーフや高い襟で、首を隠させてきた。——けれど、査察の一件で、ワタシは思い知った。この方法には、穴がある。


 だって——考えてもみてほしい。うちの使用人の中で、一部の者だけが、やけに首元を隠している。他の者は、普通の格好なのに。……それは、逆に、目立つ。「なぜ、あの者たちだけ、首を隠している?」と。鋭い査察官なら、そこに、目をつける。


 どうすれば、いいか。——ワタシは、頭を抱えた。


 全員に隠させるにも、理由がいる。不自然でない、理由が。


(——隠すなら)


 その時。前世の、遠い記憶が、ふっと蘇った。


 一本の木を隠すなら、森の中。一枚の葉を隠すなら、木の葉の中。——ならば。


(——隠すなら、全員で、隠せばいいんだ)


 ワタシは、はっと、顔を上げた。


 一部の者だけが首を隠すから、目立つ。なら——商会で働く者、全員が、当たり前のように首元に何かを巻いていれば? そうすれば、誰が「隠している」のか、わからなくなる。隷紋のない者も、そうでない者も。孤児も、行き場をなくした者も。——みんな一緒なら、視線は、散る。


 そのための、いちばん自然な方法。


(——制服だ)



「制服……ですかい?」


 ワタシの思いつきを聞いて、ニコが、きょとんとした。


「そう。——アステリア商会で働く者は、みんな、お揃いの服を着る。その、決まりの一つとして。首元に、スカーフを巻く。全員が、だ」


 ワタシは、机の上に、紙を広げて、説明した。


「そうすれば、首を隠してるのが、特別なことじゃなくなる。『うちの商会の、決まりだから』。それで、全部、通る。——誰も、一人ひとりの首なんて、気にしなくなる」


「……なるほど!」


 ニコの目が、見開かれた。


「そういうことか! 一人だけこそこそ隠すから、怪しまれる。——だが、全員が『制服』として、堂々と巻いてりゃ。それが当たり前になる。——うまく、考えたもんだ、旦那!」


 商才のあるニコは、すぐに、その先まで、見通したようだった。


「それに——こいつは、商売にも、使えるぜ」


「え?」


「制服ってのはよ、いわば、動く看板だ。うちの店の者が、揃いの、洒落た格好で、王都を歩く。——そりゃあ、目を引く。『あれは、どこの店だ?』ってな。うまくやりゃ、宣伝になる」


(——さすが、ニコ)


 ワタシの「隠すための工夫」を、ニコは、たちまち「儲けるための一手」に変えてしまった。



 制服のあつらえには、クラリスティアも、思わぬ形で、力を貸してくれた。


「デザインは、わたくしが、見てあげる」


 彼女は、そう言って、腕まくりをした。貴族の令嬢だけあって、装いの美意識は、確かなものだった。


「ただ、隠すためだけの、野暮ったいものでは、意味がないわ。——どうせなら。誰もが、着たいと思うくらい、素敵なものにしましょう」


 こうして、出来上がった制服は。


 落ち着いた色合いの、上品な仕立て。そして、首元には、商会の色を映した、洒落たスカーフ。——それは、「隠すための布」には、まるで見えなかった。むしろ、洗練された、装いの、ひとつの飾りだった。


 効果は、すぐに、現れた。


 アステリア商会の使用人たちが、その制服で、王都を歩く。すると——街の人々が、振り返る。


「あら、素敵。——あれ、どこの商会かしら」


「アステリア商会、ですって。あの、評判の」


「スカーフの巻き方、真似してみようかしら」


 瞬く間に、アステリア商会の制服は、王都で、ちょっとした評判になった。あの店で働く者は、身なりが良い。垢抜けている。——その評判は、そのまま、商会の格を、押し上げた。


 首を隠すという、苦肉の策。


 それが——いつのまにか、商会の「顔」に、なっていた。


(——ピンチは、アイデアひとつで、ひっくり返せる)


 ワタシは、内心で、こぶしを握った。前世で、幾度となく、無理難題を、知恵で乗り越えてきた、あの頃のように。


 そして——この制服には、もう一つ。ワタシにとって、何より嬉しい「効果」があった。


 奴隷あがりの者も。孤児も。行き場をなくして流れてきた者も。——みんなが、同じ制服を着て、同じスカーフを巻いて、並んで働いている。そこには、もう、身分の境目なんて、なかった。


 隠すために、お揃いにした。——けれど、その姿は、はからずも、ワタシが夢見る「みんなが等しく生きられる場所」を、そのまま、映し出しているようだった。



 そしてもう一つ。セバスの記録の備えを、さらに念入りに。買い入れの名義や扱いをばらけさせ、一つの家に記録が偏らぬよう、どこから洗っても不審に映らないように。


 地味な作業だった。けれど、これこそがワタシたちの活動の、生命線だった。


「——派手な魔法より、よっぽど大事な仕事だな」


 ワタシがそうこぼすと、ニコが笑った。


「違いねえ。けど旦那、こういう地味な備えを馬鹿にしねえ奴が——いちばん長生きするのさ」



 守りを固めながら、ワタシは一つ、引っかかっていることがあった。


 あの査察官の捨て台詞。「その目利き、どこで覚えた」。——あれは、ボルツ伯爵のただの嫌がらせだったのか。それとも、もっと別の意図があったのか。


 ワタシはその夜、学院の中庭で、クラリスティアに相談した。


「——査察、ね」


 話を聞いたクラリスティアは、しばらく考え込んだ。そして、静かに言った。


「ルキウス。一つ、忠告しておくわ。——あなたは、ボルツ伯爵を『敵』だと思っているでしょう」


「……違うんですか?」


「違わない。彼は確かに、あなたの敵よ。——でも」


 クラリスティアの深い緑の瞳が、夜の闇の中で鋭く光った。


「ボルツ伯爵は、しょせん一枚の駒に過ぎないの」


(——駒)


 ワタシの背筋が、ぴくりとした。


「以前、話したでしょう。保守派の貴族と教会が手を組んで、この国の変化を抑え込んでいる、と。——ボルツ伯爵は、その末端の一人。奴隷で儲けるたくさんの貴族の、ただの一人に過ぎないの」


「じゃあ……その上には」


「ええ」


 クラリスティアの声が、わずかに低くなった。


「保守派の貴族たちを束ね、教会を動かし、そして——この国の評議会すら、意のままに操る。そういう存在が。——ボルツ伯爵の、ずっとずっと上にいる」


(——っ)


 ワタシは息を呑んだ。


 評議会。——この国の政を決める、最高機関。それすら意のままにする存在。


 貴族でも、商人でもない。もっと上。もっと奥。この国の闇の、いちばん深いところに鎮座する、何か。


「その人物が誰なのか、わたくしにも確証はないわ」


 クラリスティアは首を横に振った。


「でも——いる。それは確かよ。わたくしが改革を志して、調べを進めるたび。決まって、見えない壁にぶつかる。記録が消されている。証言が握りつぶされている。——まるで誰かが上から、すべてを覆い隠しているみたいに」



 ワタシはしばらく、言葉が出なかった。


 ボルツ伯爵でさえ、駒。その上に、貴族と教会を束ね、評議会を操る、顔の見えない誰か。


 ワタシが辺境で、一人ずつこっそり救っていた、あの頃。あの頃は想像もしなかった。一人の奴隷の鎖を解くことの、その先に。こんなにも巨大で底の知れない闇が、横たわっていたなんて。


(——でも)


 ワタシはこぶしを握った。


 不思議と、足がすくむ感じはなかった。


 なぜなら——その巨大な闇の正体を知ったからこそ、ワタシは初めて、「本当に変えるべきもの」の輪郭を掴めた気がしたからだ。


 一人ずつ救う。それはこれからも続ける。でも、それだけでは足りない。この国の闇のいちばん奥にある、その「楔」を、いつか抜かなければ。——本当の意味で、誰も鎖につながれない国は、来ない。


「クラリスティアさん」


 ワタシは静かに言った。


「教えてくれて、ありがとう。——ワタシはまだ、その正体を知らない。でも、いつか必ず、その『いちばん上』と向き合うことになる。——そんな気がします」


 クラリスティアはワタシを見て——それから、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……あなたは本当に、どこまでもまっすぐね」


 その声には、案じるような響きがあった。


「気をつけて。——その『いちばん上』に近づきすぎれば、あなたもただでは済まないかもしれない」


「……はい」


 ワタシは頷いた。


 夜空を見上げる。星が瞬いている。


 あの巨大な闇の、いちばん奥にいる誰か。その顔を、ワタシはまだ知らない。


 ——けれど、いつか必ず。その影と対峙する日が来る。


 ワタシはなぜか、そう確信していた。


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