第30話 その上に、いるもの
査察をしのいだ後。ワタシたちは、守りを固め直すことにした。
あの一件で、はっきりした。ボルツ伯爵は、役所の権力まで使って、こちらの粗を執拗に探してくる。なら——付け入る隙を、一つずつ潰しておかなければならない。
いちばんの弱みは、はっきりしている。解放した者の首に、隷紋がないことだ。
本来、隷紋は誰にも消せない。だから、奴隷として雇っているはずの者の首に、その痕がなければ——「消した」と、勘づかれかねない。皮肉なことに、鎖を断ち切った証そのものが、いちばんの弱点なのだ。
これまでは、解放した者に、それぞれスカーフや高い襟で、首を隠させてきた。——けれど、査察の一件で、ワタシは思い知った。この方法には、穴がある。
だって——考えてもみてほしい。うちの使用人の中で、一部の者だけが、やけに首元を隠している。他の者は、普通の格好なのに。……それは、逆に、目立つ。「なぜ、あの者たちだけ、首を隠している?」と。鋭い査察官なら、そこに、目をつける。
どうすれば、いいか。——ワタシは、頭を抱えた。
全員に隠させるにも、理由がいる。不自然でない、理由が。
(——隠すなら)
その時。前世の、遠い記憶が、ふっと蘇った。
一本の木を隠すなら、森の中。一枚の葉を隠すなら、木の葉の中。——ならば。
(——隠すなら、全員で、隠せばいいんだ)
ワタシは、はっと、顔を上げた。
一部の者だけが首を隠すから、目立つ。なら——商会で働く者、全員が、当たり前のように首元に何かを巻いていれば? そうすれば、誰が「隠している」のか、わからなくなる。隷紋のない者も、そうでない者も。孤児も、行き場をなくした者も。——みんな一緒なら、視線は、散る。
そのための、いちばん自然な方法。
(——制服だ)
*
「制服……ですかい?」
ワタシの思いつきを聞いて、ニコが、きょとんとした。
「そう。——アステリア商会で働く者は、みんな、お揃いの服を着る。その、決まりの一つとして。首元に、スカーフを巻く。全員が、だ」
ワタシは、机の上に、紙を広げて、説明した。
「そうすれば、首を隠してるのが、特別なことじゃなくなる。『うちの商会の、決まりだから』。それで、全部、通る。——誰も、一人ひとりの首なんて、気にしなくなる」
「……なるほど!」
ニコの目が、見開かれた。
「そういうことか! 一人だけこそこそ隠すから、怪しまれる。——だが、全員が『制服』として、堂々と巻いてりゃ。それが当たり前になる。——うまく、考えたもんだ、旦那!」
商才のあるニコは、すぐに、その先まで、見通したようだった。
「それに——こいつは、商売にも、使えるぜ」
「え?」
「制服ってのはよ、いわば、動く看板だ。うちの店の者が、揃いの、洒落た格好で、王都を歩く。——そりゃあ、目を引く。『あれは、どこの店だ?』ってな。うまくやりゃ、宣伝になる」
(——さすが、ニコ)
ワタシの「隠すための工夫」を、ニコは、たちまち「儲けるための一手」に変えてしまった。
*
制服のあつらえには、クラリスティアも、思わぬ形で、力を貸してくれた。
「デザインは、わたくしが、見てあげる」
彼女は、そう言って、腕まくりをした。貴族の令嬢だけあって、装いの美意識は、確かなものだった。
「ただ、隠すためだけの、野暮ったいものでは、意味がないわ。——どうせなら。誰もが、着たいと思うくらい、素敵なものにしましょう」
こうして、出来上がった制服は。
落ち着いた色合いの、上品な仕立て。そして、首元には、商会の色を映した、洒落たスカーフ。——それは、「隠すための布」には、まるで見えなかった。むしろ、洗練された、装いの、ひとつの飾りだった。
効果は、すぐに、現れた。
アステリア商会の使用人たちが、その制服で、王都を歩く。すると——街の人々が、振り返る。
「あら、素敵。——あれ、どこの商会かしら」
「アステリア商会、ですって。あの、評判の」
「スカーフの巻き方、真似してみようかしら」
瞬く間に、アステリア商会の制服は、王都で、ちょっとした評判になった。あの店で働く者は、身なりが良い。垢抜けている。——その評判は、そのまま、商会の格を、押し上げた。
首を隠すという、苦肉の策。
それが——いつのまにか、商会の「顔」に、なっていた。
(——ピンチは、アイデアひとつで、ひっくり返せる)
ワタシは、内心で、こぶしを握った。前世で、幾度となく、無理難題を、知恵で乗り越えてきた、あの頃のように。
そして——この制服には、もう一つ。ワタシにとって、何より嬉しい「効果」があった。
奴隷あがりの者も。孤児も。行き場をなくして流れてきた者も。——みんなが、同じ制服を着て、同じスカーフを巻いて、並んで働いている。そこには、もう、身分の境目なんて、なかった。
隠すために、お揃いにした。——けれど、その姿は、はからずも、ワタシが夢見る「みんなが等しく生きられる場所」を、そのまま、映し出しているようだった。
*
そしてもう一つ。セバスの記録の備えを、さらに念入りに。買い入れの名義や扱いをばらけさせ、一つの家に記録が偏らぬよう、どこから洗っても不審に映らないように。
地味な作業だった。けれど、これこそがワタシたちの活動の、生命線だった。
「——派手な魔法より、よっぽど大事な仕事だな」
ワタシがそうこぼすと、ニコが笑った。
「違いねえ。けど旦那、こういう地味な備えを馬鹿にしねえ奴が——いちばん長生きするのさ」
*
守りを固めながら、ワタシは一つ、引っかかっていることがあった。
あの査察官の捨て台詞。「その目利き、どこで覚えた」。——あれは、ボルツ伯爵のただの嫌がらせだったのか。それとも、もっと別の意図があったのか。
ワタシはその夜、学院の中庭で、クラリスティアに相談した。
「——査察、ね」
話を聞いたクラリスティアは、しばらく考え込んだ。そして、静かに言った。
「ルキウス。一つ、忠告しておくわ。——あなたは、ボルツ伯爵を『敵』だと思っているでしょう」
「……違うんですか?」
「違わない。彼は確かに、あなたの敵よ。——でも」
クラリスティアの深い緑の瞳が、夜の闇の中で鋭く光った。
「ボルツ伯爵は、しょせん一枚の駒に過ぎないの」
(——駒)
ワタシの背筋が、ぴくりとした。
「以前、話したでしょう。保守派の貴族と教会が手を組んで、この国の変化を抑え込んでいる、と。——ボルツ伯爵は、その末端の一人。奴隷で儲けるたくさんの貴族の、ただの一人に過ぎないの」
「じゃあ……その上には」
「ええ」
クラリスティアの声が、わずかに低くなった。
「保守派の貴族たちを束ね、教会を動かし、そして——この国の評議会すら、意のままに操る。そういう存在が。——ボルツ伯爵の、ずっとずっと上にいる」
(——っ)
ワタシは息を呑んだ。
評議会。——この国の政を決める、最高機関。それすら意のままにする存在。
貴族でも、商人でもない。もっと上。もっと奥。この国の闇の、いちばん深いところに鎮座する、何か。
「その人物が誰なのか、わたくしにも確証はないわ」
クラリスティアは首を横に振った。
「でも——いる。それは確かよ。わたくしが改革を志して、調べを進めるたび。決まって、見えない壁にぶつかる。記録が消されている。証言が握りつぶされている。——まるで誰かが上から、すべてを覆い隠しているみたいに」
*
ワタシはしばらく、言葉が出なかった。
ボルツ伯爵でさえ、駒。その上に、貴族と教会を束ね、評議会を操る、顔の見えない誰か。
ワタシが辺境で、一人ずつこっそり救っていた、あの頃。あの頃は想像もしなかった。一人の奴隷の鎖を解くことの、その先に。こんなにも巨大で底の知れない闇が、横たわっていたなんて。
(——でも)
ワタシはこぶしを握った。
不思議と、足がすくむ感じはなかった。
なぜなら——その巨大な闇の正体を知ったからこそ、ワタシは初めて、「本当に変えるべきもの」の輪郭を掴めた気がしたからだ。
一人ずつ救う。それはこれからも続ける。でも、それだけでは足りない。この国の闇のいちばん奥にある、その「楔」を、いつか抜かなければ。——本当の意味で、誰も鎖につながれない国は、来ない。
「クラリスティアさん」
ワタシは静かに言った。
「教えてくれて、ありがとう。——ワタシはまだ、その正体を知らない。でも、いつか必ず、その『いちばん上』と向き合うことになる。——そんな気がします」
クラリスティアはワタシを見て——それから、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……あなたは本当に、どこまでもまっすぐね」
その声には、案じるような響きがあった。
「気をつけて。——その『いちばん上』に近づきすぎれば、あなたもただでは済まないかもしれない」
「……はい」
ワタシは頷いた。
夜空を見上げる。星が瞬いている。
あの巨大な闇の、いちばん奥にいる誰か。その顔を、ワタシはまだ知らない。
——けれど、いつか必ず。その影と対峙する日が来る。
ワタシはなぜか、そう確信していた。




