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第29話 査察の日

 ボルツ伯爵の次の手は、思っていたよりずっと、嫌なところを突いてきた。


「——役所から、通達?」


 商会に届いた一枚の書状。それを読んだニコの顔が、さっと強張った。


「ああ。『アステリア商会で雇用している奴隷の身元について、台帳との照合を行う』——要するに、査察だ。近いうちに役人が、うちの使用人を一人ずつ検めに来る」


(——っ)


 ワタシの心臓が、冷たく跳ねた。


 来た。いちばん突かれたくないところを。


 商会で働く、解放された仲間たち。彼らは表向き、「奴隷の身分のまま、商会が雇い入れた使用人」として登録されている。けれど——その首には、隷紋がない。本来、奴隷であれば、必ずあるはずの痕が。


 もし査察で、それを検められたら。「奴隷として届け出ているこの者に、なぜ隷紋がないのか」と問われたら。——隷紋は、誰にも消せないはずのもの。それが消えているとなれば、隷紋を違法に消した、その動かぬ証拠になりかねない。


「ボルツ伯爵だな」


 ワタシは低く言った。


「兵糧攻めが効かないと見て、今度は役所の権力を使ってきた。——査察という名目で、うちの粗を、無理やり探し出すつもりだ」


「ご明察、だろうな」


 ニコが苦々しく頷いた。



 すぐに、セバスに相談した。


 タウンハウスで事の次第を聞いたセバスは、白い眉をぴくりと動かした。


「……なるほど。台帳の照合査察ですか。厄介な手を打ってこられましたな」


「セバス。——どうにか、ならないか」


「台帳の上でしたら、案ずるには及びませぬ。——あの者たちは、商会が正規に買い入れ、奴隷の身分のまま雇っている使用人。そういう届けにございます。買い入れの記録も、代金の帳尻も、すべて筋が通っております。何人雇おうと、それ自体は、咎められる筋合いのものではございませぬ」


 だが、と、セバスの声が、低くなった。


「問題は……そこではございませぬ。——あの者たちの、首にございます」


(——っ)


 ワタシは、息を呑んだ。


 そうだ。書類の上は、何の問題もない。「商会が買った奴隷」。ただ、それだけのこと。——けれど。査察官が、使用人一人ひとりの首を、直に検めたら。そこにあるべき隷紋が——ない。


「本来、奴隷であれば、首に隷紋があるのが道理。それが、ない。——隷紋は、誰にも消せぬというのが、この世の常識。にもかかわらず消えているとなれば……よもや、と、勘づかれかねません」


 商会の空気が、重く沈んだ。


 記録の上でどう取り繕っても、実物の首に痕がなければ、鋭い役人なら引っかかる。——それが、いちばんの弱みだった。


 その時。


「——あの。わたし、から」


 声を上げたのは、フィーだった。


「みんなに伝えます。査察の日、どうふるまえばいいか。——わたしたちはもう、何度もこういう怖い思いをくぐってきました。落ち着いて口裏を合わせれば、きっと大丈夫」


 フィーの言葉に、仲間たちの強張った顔が、少しだけほぐれた。


 かつて、誰よりもおびえていた少女が。今は皆を落ち着かせる側に、立っている。


(——フィー)


 ワタシは胸が熱くなった。



 査察の日。


 役人が数人、商会にやってきた。その中に——一人、明らかに毛色の違う男が混じっていた。やけに鋭い目つきの、痩せた男。たぶん、ボルツ伯爵の息のかかった査察官だ。


 検めは、淡々と進んだ。


 ニコとセバスが整えた帳簿は、完璧だった。買い入れの記録も、奴隷の身分のまま使用人として雇い入れた登録も、どこをつついても筋が通っている。役人たちは書類を検め、首をひねりながらも、不審な点を見つけられずにいた。


 けれど——あの鋭い目の査察官だけは。使用人たちの首元を、じろじろと見ていた。


「——そこの娘」


 査察官が、一人の少女を呼び止めた。台帳の上では、奴隷として届け出られている娘だ。彼女の首には、高い襟が巻かれている。


 ——だが、この子に限っては。ワタシは、内心、ほっとしていた。


 この娘は、幼い頃に、ひどい火傷を負っていた。首から肩にかけて、引きつれた古い傷が、広がっている。——隷紋を消したその跡も、その火傷の痕に、すっかり覆い隠されているのだ。


「首の布を取って見せろ。——奴隷なら、隷紋の痕があるはずだ。確かめさせてもらう」


(——大丈夫。この子なら)


「……どうぞ」


 少女は、ワタシたちの打ち合わせ通り、落ち着いて襟を緩めた。


 査察官が、目を凝らす。


 そこにあったのは——首から肩にかけて広がる、痛々しい火傷の痕。引きつれた皮膚が、うねるように覆っていて。どこに隷紋があったのかも、そもそも隷紋があったのかさえ、判別できないほどだった。


「……これは」


「その子は、小さい頃、火事で、ひどい火傷を負ったそうでしてね」


 すかさず、ニコが横から口を添えた。


「もとは、その傷のせいで買い手もつかず、苦労したんでさ。うちが雇って、ようやく人並みの暮らしができるようになった。——なあ?」


 少女が、こくりと頷く。


 査察官はしばらく、その爛れた首を睨んでいたが——やがて舌打ちをして、引き下がった。これでは、隷紋があるともないとも言えない。決定的な証拠には、ならなかったのだ。



 査察は、何事もなく終わった。——表向きは。


 役人たちが引き上げた後。ワタシはどっと、疲れが押し寄せるのを感じた。


「……助かった。あの子の火傷のことと、ニコの機転がなかったら、どうなっていたか」


「ひやひや、したけどな」


 ニコが肩をすくめる。


 もっとも——あの子の傷に助けられた、というのは。手放しでは、喜べない。あの痛々しい火傷は、あの子がかつて舐めてきた辛酸の、証でもあるのだから。それが、皮肉にも、あの子を救った。——複雑な、思いだった。


 けれど——去り際。


 あの鋭い目の査察官が、ワタシの方を振り返って、こう言ったのが引っかかっていた。


「——アステリア商会の坊や。お前さんの商会は、どうも運がいい。買う奴隷、買う奴隷、妙に見どころのある者ばかり引き当てる。——まるで最初から、わかっていたかのように、な」


 そう言って、男は薄く笑った。


「その目利き。——いったい、どこで覚えた?」


 返事を待たずに、男は去っていった。


(——っ)


 ワタシは背筋に、冷たいものが走るのを感じた。


 目利き。——あの男は、ワタシの「視る」力に、ほんのわずかにだが、勘づき始めている。


 査察は、しのいだ。でも——影はまた、一歩、こちらに近づいた。


(——気を、引き締めないと)


 ワタシは暮れていく王都の空を見上げて、静かにこぶしを握った。


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