幕間 わたしの、はじめてのもの フィー視点
わたしには、昔の記憶がほとんどない。
気づいたときには、奴隷だった。名前も、生まれも知らない。心を動かすことを、とうの昔にやめていた。——そういうものだと思っていた。それが、わたしのすべてだと。
*
奴隷だった頃のわたしは、たぶん人形のようなものだった。
命じられれば動く。命じられなければ止まる。腹が減っても寒くても痛くても、声を上げなかった。声を上げても何も変わらないと、体が知っていたから。
いつからか、わたしは何も感じなくなった。
うれしいも、かなしいも、こわいも、すべてが遠くなって、薄い膜の向こうに消えていった。そのほうが楽だった。何も感じなければ、傷つくこともないのだから。
だから、あの少年がわたしを買ったときも、わたしは何も思わなかった。また別の主人に仕えるだけ。そういうものだと思っていた。
——けれど、その少年は、おかしな人だった。
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「君の名前は?」
最初に、彼はそう訊いた。
わたしは「わかりません」と答えた。本当に、わからなかったから。
すると彼は困った顔をして、言った。「そっか。じゃあ、それはこれからゆっくり考えよう」と。
——考える? 奴隷のわたしの名前を、主人がわたしと一緒に考える?
その時のわたしには、その言葉の意味が、よくわからなかった。
馬車の中で、彼はわたしに蜜パンをくれた。「これ、食べる?」と。わたしが「いただいて、いいのですか」と訊くと、彼は当たり前のように言った。「もちろん。君のだよ」と。
——君の。わたしの、もの。
そんなものを、持ったことがあっただろうか。
パンを一口かじったとき。ほんの少しだけ、薄い膜の向こうの何かが、ぴくり、と動いた気がした。——たぶん、あれが始まりだった。
*
「フィーは、何が好き?」
ある日、彼はわたしにそう訊いた。
わたしは答えられなかった。「好き」が何なのか、わからなかったから。
彼は言った。「役に立つとか、立たないとか、関係なく。君が何を好きか、それを知りたかった」と。
——役に立たなくても。わたしの「好き」を、知りたい?
わたしはずっと、役に立つかどうかで値踏みされてきた。役に立てば生かされ、立たなければ捨てられる。それがわたしの世界のすべてだった。
なのに、この人は。役に立たないわたしの「好き」を、知りたいと言う。
その時、わたしの中のいちばん固く凍りついていたところが——ほんの少しだけ、溶けた音がした。
*
それから、わたしの「はじめて」が、少しずつ増えていった。
はじめて自分から「赤いほうがいい」と言えた日。セリアさまが目を丸くして、それからとても喜んでくれた。
はじめて自分で、着る服を選んだ日。
はじめて声を上げて笑った日。焼いたパイをルキさまが「おいしい」と言ってくれて。気づいたら笑っていた。自分でも驚くくらい、自然に。
一つひとつが、わたしにとっては奇跡だった。ルキさまがくれた、奇跡。
凍りついて、人形のようだったわたしが。今は好きなものを選び、自分の足で歩き、声を上げて笑える。——人に、戻れた。
*
今、わたしは王都で使用人頭をしている。
屋敷を切り盛りし、市場の噂を集め、解放された子に寄り添う。——かつて誰かにしてほしかったことを、今はわたしがしている。
「だいじょうぶ。ここは、あったかい場所だから」
おびえる子にそう声をかけるたび、わたしは思う。
——わたしも、ちゃんと誰かの役に立てている。いいえ、違う。役に立つ、立たないではないのだ。ただ、わたしがこの子に何かをしてあげたい。そう思える。その気持ちがあること自体が、嬉しいのだ。
これが、心を持つということなのだと。今のわたしには、わかる。
*
ルキさまは、よく笑ってくれる。
「フィー、すごいな」「ありがとう、フィー」と。
その言葉を聞くたび、わたしの胸はぽかぽかと温かくなるのだ。
これが何という感情なのか、わたしにはまだ、よくわからない。
ただ、ルキさまが笑うと、わたしも笑いたくなる。ルキさまが困っていると、わたしも苦しくなる。ルキさまの隣にいられると、それだけで胸がいっぱいになる。
——たぶん、これは。まだ名前のつけられない、大切な何か。
いつか、この気持ちにもちゃんと名前をつけられる日が、来るのだろうか。
わからない。でも、急がなくていいと思う。わたしの「はじめて」は、いつもゆっくりと、やってくるのだから。
いつか、ルキさまの本当の戦いの力になりたい。もらったこの自由を、ルキさまのために使いたい。
——それが、今のわたしの、たった一つの願いだった。




