幕間 氷のバラの、ひとりごと クラリスティア視点
わたくし、クラリスティア・オルブライトは、ずっと一人だと思っていた。
オルブライト侯爵家の長女。次期当主候補。社交界では「氷のバラ」などと呼ばれている。冷たく、近寄りがたく、誰の心も寄せつけない令嬢。——けれどそれは、わたくしが選んで被った仮面だった。
幼い頃から、わたくしはこの国の歪みが見えてしまう子どもだった。
*
最初にそれを感じたのは、五つか六つの頃だったと思う。
屋敷の庭で、一人の侍女が転んで、膝をすりむいているのを見た。幼いわたくしは、心配して駆け寄った。けれど侍女は青ざめて、地面に額をこすりつけた。「申し訳ございません、お嬢様の御前で、見苦しいものを」と。
——おかしい、と思った。
怪我をしたのは、その人なのに。痛いのは、その人なのに。どうして謝るのは、その人なのだろう。
わたくしがそう口にすると、乳母は困った顔をした。「お嬢様。あの者たちは、わたくしどもとは違うのです。そういうもの、なのですよ」
そういうもの。その一言が、わたくしにはどうしても飲み込めなかった。
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成長するにつれ、わたくしの目には、もっと多くのものが見えてきた。
屋敷に出入りする商人が、奴隷を家畜のように値踏みすること。父の客が酒の席で「あの領の奴隷は質が悪い」などと笑い話にすること。市場の隅で、鎖につながれた子どもが、虚ろな目で宙を見ていること。
誰もそれを、おかしいとは言わなかった。
貴族たちはそれを当たり前として受け入れ、教会は「身分は女神の定めた秩序」と説いた。この国のすべてが、「そういうもの」という分厚い壁の中に収まっていた。
わたくしは何度か、その壁を叩こうとした。
夕食の席で、父に問うた。「お父様。奴隷も、わたくしたちと同じ人間ではないのですか」と。
父は苦い顔をした。「クラリスティア。そのような話を、よそでするでない。オルブライト家の名に傷がつく」
社交の場で、同じ年頃の令嬢に、それとなく話を向けたこともある。けれど返ってきたのは、奇妙なものを見る冷たい視線だけだった。「クラリスティア様って、変わっていらっしゃるのね」
——そうして、わたくしは学んだ。
理想を口にすれば、潰される。浮く。疎まれる。家にまで累が及ぶ。
だからわたくしは、心を閉ざすことにした。
*
冷たい仮面を被った。
誰も寄せつけない、氷のバラ。そう呼ばれることを、むしろ利用した。近寄りがたければ、誰もわたくしの内側を覗こうとはしない。仮面の下で、わたくしは一人、戦うことにした。
夜、皆が寝静まった頃。わたくしはこっそり書庫にこもった。
この国の法を学んだ。身分制度の歴史を調べた。奴隷解放を試みて消えていった家のことを、古い記録の中に探した。——いつか、この国を内側から変える、その日のために。
誰にも言えない、孤独な戦いだった。
報われる保証も、終わりも見えなかった。それでもやめなかった。やめてしまえば、あの膝をすりむいて謝った侍女の前で、何もできなかった自分を、許せない気がしたから。
——長い、長い孤独だった。
*
あの少年に出会うまでは。
ルキウス・フォン・アーデルハイト。辺境の、目立たない三男。可もなく不可もない、平凡な子。——最初はそう思っていた。
いいえ。正直に言えば、最初に感じたのは警戒だった。
あの実技演習の日。わたくしは、誰かに見られている気がした。それも、ただ眺めるのではない。何か、奥の奥まで覗き込むような、奇妙な視線。振り返ると、その平凡な少年が、慌てて目を逸らした。
(——何かしら、あの子)
気になって後をつけた、というわけではない。けれど夜の図書館で彼と鉢合わせたのは、たぶん偶然ではない、何かの導きだったのだと、今は思う。
彼はわたくしと、同じ本を探していた。奴隷制度の、法と歴史。誰もが目を背ける、危うい主題を。
わたくしはつい、口にしてしまった。長年、誰にも言えなかった本心を。「人が人を売り買いするのは、おかしいと思わない?」と。
笑われると思った。「侯爵家の令嬢が、何を」と。いつものように。
——けれど、彼は笑わなかった。
「ワタシも、同じことを思っていますから」
静かに、そう言ってのけた。
その瞬間の胸の高鳴りを、わたくしはどう言葉にすればいいのか、わからない。
生まれて初めて出会ったのだ。同じものを見ている人に。「そういうもの」という壁の前で、わたくしと同じように立ち止まってくれる人に。
——一人では、なかったのだと。
そう知っただけで、長年凍りついていた何かが、音を立てて崩れていくようだった。
*
(——彼は、何者なのかしら)
あれから、時々思う。
あの平凡な仮面の下に、何かが隠れている気がする。市場で商人たちと渡り合うときの、あの妙に堂に入った様子。行き場のない者を雇う商会という、突飛な構想。それを、わたくしの口利きだけで本当に立ち上げてしまう、行動力。——ただの辺境の三男に、できることだろうか。
わたくしの勘は告げている。彼は、見た目通りの平凡な少年ではない、と。
——けれど、わたくしはあえて、深くは詮索しない。
彼にも、隠したいことがあるのだろう。わたくしに仮面があるように、彼にも彼の事情があるのだろう。
いつか彼が、自分から話してくれる日が来るなら。それまで、待てばいい。焦ることはない。わたくしたちにはたぶん、これからいくらでも、時間があるのだから。
窓の外の月を見上げる。
ふと、自分の口元がゆるんでいることに気づいた。
——氷のバラが、笑うなんて。
わたくしはもう、一人ではないのだから。




