第24話 看板を、掲げる
商会を立ち上げると言っても、簡単な話ではなかった。
その前に——大きな動きが、一つ、あった。
ニコと、メイアが。辺境を離れ、王都に、出てきてくれたのだ。
商会を本気で興すなら、商才のニコと、薬師のメイアの力が、どうしても要る。——そう相談すると、二人は、思いのほか、あっさりと頷いてくれた。
「まあ、いつかはこうなると思ってたさ」
ニコは、からりと笑った。
「辺境の灯は、仕込んだ若いのに、任せてきた。あいつも、もう一人前だ。——おれがいなくたって、ちゃんと回る。それに、商売の本場は、やっぱり都だからな。うずうずしてたのさ」
メイアも、穏やかに微笑んだ。
「わたしの薬房も、腕のいい弟子が、継いでくれました。——あの子なら、もう、心配いりません。それに、ルキさんのおそばで、もっと多くの人の力になれるのなら。——わたしは、王都へ、行きたいのです」
辺境の『アステリアの灯』は、二人が育てた後継者たちに、託された。そして、ニコとメイアは、新たな舞台へ——ワタシたちのいる、王都へ。
(——心強い)
辺境で共に戦ってきた仲間が、王都でも、隣にいてくれる。それは、これ以上ない、力だった。
こうして、顔ぶれの揃ったワタシたちは、いよいよ商会の立ち上げに、本腰を入れることになった。
もっとも——王都でまっとうな商会を構えるには、いくつもの壁があった。
「まず、後ろ盾がいる」
タウンハウスの一室。ニコが帳面を広げて説明してくれた。
「王都ってのは、信用の街だ。どこの馬の骨ともわからん商人がいきなり店を構えても、誰も相手にしねえ。——『どこそこの貴族が後ろについてる』。そういう看板がいるのさ」
「後ろ盾、か」
ワタシは腕を組んだ。
アーデルハイト家の名を使うことはできる。けれどそれは危うい。商会とアーデルハイト家が直接結びつけば、いざ活動が露見した時、家ごと巻き添えにしてしまう。それに、長兄ヴィルに絶対気づかれる。
(——家の名は、使えない)
かといって、無名のままでは商会は立ち行かない。悩ましいジレンマだった。
*
その答えは、思いがけないところからやってきた。
いつもの中庭のベンチ。ワタシが商会のことで考え込んでいると、クラリスティアが隣に腰を下ろした。
「……浮かない顔ね」
「ああ、いや。——ちょっと、考え事を」
「商売のことかしら」
(——え)
ワタシはぎくりとした。
「この前、市場で見かけたわ。あなたが商人と、ずいぶん熱心に話しているのを。辺境伯家の三男が商いに精を出している。少し気になっていたの」
(——見られてた)
まずいと思った。ワタシは慎重に言葉を選んだ。
「……ええ。実は、ちょっとした商会を始めようと思っていて。でも王都だと、後ろ盾がないと難しいみたいで」
半分は本当のこと。半分はぼかして。
クラリスティアはしばらく、ワタシを見ていた。あの、何かを見透かすような深い緑の瞳で。
そして、ふっと息を吐いて言った。
「——その商会。何を扱うつもり?」
「……行き場のない者を雇って。手仕事の品や、薬や、そういうものを」
「行き場のない者を雇う」
クラリスティアの眉が、わずかに動いた。
「孤児や、職にあぶれた者。あるいは——奴隷。そういう者たちに、まっとうな働き口を与える。そういう商会?」
(——っ)
ワタシの心臓が跳ねた。
鋭い。彼女はワタシのぼかした言葉の、その奥を、半分以上見抜いている。
ワタシは観念して——けれど核心は伏せたまま、頷いた。
「……はい。そういう商会です」
クラリスティアは、少しの間黙っていた。
それから、驚くべきことを言った。
「——いいわ。わたくしが後ろ盾になってあげる」
「……は!?」
「オルブライト侯爵家の名を貸す、とまでは言えない。家の許しがいるもの。——でも、わたくし個人の伝手なら。信用のおける商人や、役所への口利きくらいはできる。それで足りるかしら」
(——なんで、そこまで)
ワタシが戸惑っていると、クラリスティアは窓の外を見ながら、静かに言った。
「言ったでしょう。わたくしは貴族として、内側からこの国を変えたい。——行き場のない者に居場所を与える商会。それはわたくしの理想とも重なる。だから手を貸すの。ただ、それだけ」
彼女の横顔は、あの図書館で見た孤独な理想の炎を、今、確かに行動に移そうとしていた。
(——ああ)
ワタシは思った。
この人は、ただ夢を語るだけの人じゃない。語った理想を、ちゃんと手で掴もうとする人だ。
「……ありがとうございます」
ワタシは深く頭を下げた。
立場の違うワタシたちが、今、初めて、同じ一つのことのために手を取り合おうとしている。
*
こうして、商会は動き始めた。
クラリスティアの個人的な口利きは、絶大な効果を発揮した。「氷のバラのお墨付き」というだけで、渋っていた商人や役人が、態度を変えた。彼女の、貴族社会での立ち回りの巧さを、ワタシは改めて思い知った。
商会の名は——『アステリア商会』。
女神の名を店の看板に掲げる。——といっても、この国では、別段、大それたことではない。孤児院や施療院、貧しい者に粥を振る舞う店。人助けを旨とする場所が、慈愛の女神の名を戴くのは、昔からの、ごくありふれた慣習だ。「女神さまに恥じない商いをします」という、いわば看板代わりの誓い。市井の人々も、女神の名を見れば、「ああ、心ある店なのだね」と、むしろ安心して、のれんをくぐる。
「験担ぎにも、客寄せにも、ちょうどいい名だ」と、ニコも、にやりと笑って賛成した。
——けれど。ワタシにとって、この名前には。誰にも言えない、もう一つの意味があった。
ワタシは、知っているのだ。本物の、アステリアさまを。転生の時、ワタシに鑑定の祝福をくださった、あの、優しい女神さまを。
(——あなたの名前、借りますね。……ちゃんと、あなたに恥じないことに使いますから)
辺境の、あの鍛冶場の『アステリアの灯』から受け継いだ、大切な名前。この看板は、ワタシから女神さまへの——ささやかな、感謝と誓いでもあった。
その看板を、ワタシたちは王都の商業区の一角に掲げた。
表向きは、行き場のない者を雇い、手仕事の品や薬を商う、心ある商会。
その裏では——解放した仲間の働き口であり、活動の資金源であり、王都中の情報が集まるハブ。
あの鍛冶場から始まった小さな灯は、今、王都という大舞台に堂々と看板を掲げる、一つの『商会』へと姿を変えたのだった。
(——でも、これは)
ワタシは、真新しい看板を見上げながら思った。
(——まだ、始まりに過ぎない)
商会という足場を得た。同志も得た。
ここからワタシの戦いは——もっと大きくなっていく。




