表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/51

第22話 氷が、とけるとき

 図書館でのあの夜から、ワタシとクラリスティアの間には、奇妙な距離が生まれていた。


 遠くもなく、近くもない。互いの秘密を知った者同士の、ぎこちない近さ。廊下ですれ違えば、ほんの少し目で会釈をする。それだけの、ささやかな関係。


 けれどそれは確実に、何かが変わった証だった。


 ある日の放課後。ワタシが中庭のベンチで、こっそり辺境からの便りを読んでいると、ふいに影が差した。


「——ここ、いいかしら」


 顔を上げると、クラリスティアが立っていた。


 ワタシは少し驚いた。彼女のほうから声をかけてくるなんて。


「……どうぞ」


 彼女はワタシから少し離れて、ベンチの端に腰を下ろした。背筋は相変わらず、ぴんと伸びている。けれどその横顔は、氷のバラと呼ばれる時のあの冷たさとは、どこか違っていた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 先に口を開いたのは、彼女だった。


「……この前のこと。誰にも言っていないでしょうね」


「言いませんよ。——お互いさま、でしょう?」


 ワタシがそう返すと、クラリスティアはふっと肩の力を抜いた。


「そうね。——あなたも、わたくしに弱みを握られているものね」


「人聞きが悪いなあ」


 ワタシが苦笑すると、彼女の口元がほんの少しだけゆるんだ。


 ——笑った。氷のバラが。ほんの、わずかにだけど。



 それからワタシたちは、時々、言葉を交わすようになった。


 誰もいない場所で、ほんの短い時間だけ。けれどその会話は、ワタシにとって、思いがけず得るものが多かった。


「貴族の中にも、心ある者はいるのよ」


 ある時、クラリスティアはそう言った。


「奴隷制をよく思っていない者。身分のあり方に疑問を持つ者。——でも皆、口に出せない。声を上げれば、家ごと潰される。だから押し黙っている。わたくしのようにね」


「……潰される?」


「ええ」


 クラリスティアの瞳が、わずかに翳った。


「この国の上のほうには——変化を決して許さない、大きな力があるの。教会と結びついた、保守派の貴族たち。彼らは身分制度こそが女神の定めた秩序だと説き、それに逆らう者を容赦なく排除してきた。過去に改革を試みて消えていった家を、わたくしはいくつも知っている」


(——っ)


 ワタシの背筋に、冷たいものが走った。


 変化を許さない、大きな力。教会と結びついた、保守派の貴族たち。


 ワタシが辺境でこっそり奴隷を解放してきた、その活動のずっと先に。そんな巨大な壁が、待ち構えている——。


 ワタシはまだ、その正体を知らない。けれどクラリスティアの言葉は、ワタシに初めて、この国の「奥行き」を教えてくれた。


 辺境の領で、一人ずつ救う。それは尊いことだ。でも——本当にこの国の仕組みそのものを変えるには、もっと大きな何かと向き合わなければならない。


(——そうか。ワタシはまだ、入り口に立っているだけなんだ)



「だから、わたくしは」


 クラリスティアはまっすぐ前を見て言った。


「貴族として、内側から変えたいの。少しずつでも。法を学んで、仲間を増やして。いつか、この国の仕組みを変えられる日のために。——たとえそれが、どれほど遠い道でも」


 その横顔は凛として、美しかった。


 氷のバラ。冷たく、近寄りがたい令嬢。——その仮面は、こんなにも熱い理想を守るための、鎧だったのだ。


 ワタシは思った。


 この人はワタシとは、立場が違う。ワタシは辺境の三男で、こっそり隷紋を解いている。彼女は大貴族の令嬢で、制度の内側から変えようとしている。


 やり方は、まるで違う。


 でも——目指している場所は、同じだ。


「——きっと、変えられますよ」


 ワタシは静かに言った。


「あなたみたいな人がいるなら。——一人じゃないんだって、わかっただけで。きっと力になります」


 クラリスティアは、はっとワタシを見た。


 その深い緑の瞳がほんの一瞬揺れて——それから彼女は、ふいと顔を背けた。


「……変なこと言うのね、あなたは」


 その耳がほんの少し赤かったことには、ワタシは気づかないふりをした。



 その帰り道。ワタシは一人、考えていた。


 クラリスティアは、得難い人だ。志を同じくする、同志。貴族社会という、ワタシには手の届かない場所で戦おうとしている、頼もしい存在。


 ——でも。


 ワタシはまだ、彼女に本当のことは言えない。


 ワタシの隠した力のことも。あの鍛冶場の、灯のことも。すでに何人もの奴隷を解放してきたことも。——言えば、彼女を危険に巻き込む。それに、ワタシの活動は王国法では、紛れもない大罪なのだ。


(——いつか。本当に信じあえる日が来たら)


 その時は、すべてを話そう。


 そう思いながら、ワタシは暮れていく王都の空を見上げた。


 氷が、少しずつとけていく。


 その手応えを、確かに感じながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ