第22話 氷が、とけるとき
図書館でのあの夜から、ワタシとクラリスティアの間には、奇妙な距離が生まれていた。
遠くもなく、近くもない。互いの秘密を知った者同士の、ぎこちない近さ。廊下ですれ違えば、ほんの少し目で会釈をする。それだけの、ささやかな関係。
けれどそれは確実に、何かが変わった証だった。
ある日の放課後。ワタシが中庭のベンチで、こっそり辺境からの便りを読んでいると、ふいに影が差した。
「——ここ、いいかしら」
顔を上げると、クラリスティアが立っていた。
ワタシは少し驚いた。彼女のほうから声をかけてくるなんて。
「……どうぞ」
彼女はワタシから少し離れて、ベンチの端に腰を下ろした。背筋は相変わらず、ぴんと伸びている。けれどその横顔は、氷のバラと呼ばれる時のあの冷たさとは、どこか違っていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「……この前のこと。誰にも言っていないでしょうね」
「言いませんよ。——お互いさま、でしょう?」
ワタシがそう返すと、クラリスティアはふっと肩の力を抜いた。
「そうね。——あなたも、わたくしに弱みを握られているものね」
「人聞きが悪いなあ」
ワタシが苦笑すると、彼女の口元がほんの少しだけゆるんだ。
——笑った。氷のバラが。ほんの、わずかにだけど。
*
それからワタシたちは、時々、言葉を交わすようになった。
誰もいない場所で、ほんの短い時間だけ。けれどその会話は、ワタシにとって、思いがけず得るものが多かった。
「貴族の中にも、心ある者はいるのよ」
ある時、クラリスティアはそう言った。
「奴隷制をよく思っていない者。身分のあり方に疑問を持つ者。——でも皆、口に出せない。声を上げれば、家ごと潰される。だから押し黙っている。わたくしのようにね」
「……潰される?」
「ええ」
クラリスティアの瞳が、わずかに翳った。
「この国の上のほうには——変化を決して許さない、大きな力があるの。教会と結びついた、保守派の貴族たち。彼らは身分制度こそが女神の定めた秩序だと説き、それに逆らう者を容赦なく排除してきた。過去に改革を試みて消えていった家を、わたくしはいくつも知っている」
(——っ)
ワタシの背筋に、冷たいものが走った。
変化を許さない、大きな力。教会と結びついた、保守派の貴族たち。
ワタシが辺境でこっそり奴隷を解放してきた、その活動のずっと先に。そんな巨大な壁が、待ち構えている——。
ワタシはまだ、その正体を知らない。けれどクラリスティアの言葉は、ワタシに初めて、この国の「奥行き」を教えてくれた。
辺境の領で、一人ずつ救う。それは尊いことだ。でも——本当にこの国の仕組みそのものを変えるには、もっと大きな何かと向き合わなければならない。
(——そうか。ワタシはまだ、入り口に立っているだけなんだ)
*
「だから、わたくしは」
クラリスティアはまっすぐ前を見て言った。
「貴族として、内側から変えたいの。少しずつでも。法を学んで、仲間を増やして。いつか、この国の仕組みを変えられる日のために。——たとえそれが、どれほど遠い道でも」
その横顔は凛として、美しかった。
氷のバラ。冷たく、近寄りがたい令嬢。——その仮面は、こんなにも熱い理想を守るための、鎧だったのだ。
ワタシは思った。
この人はワタシとは、立場が違う。ワタシは辺境の三男で、こっそり隷紋を解いている。彼女は大貴族の令嬢で、制度の内側から変えようとしている。
やり方は、まるで違う。
でも——目指している場所は、同じだ。
「——きっと、変えられますよ」
ワタシは静かに言った。
「あなたみたいな人がいるなら。——一人じゃないんだって、わかっただけで。きっと力になります」
クラリスティアは、はっとワタシを見た。
その深い緑の瞳がほんの一瞬揺れて——それから彼女は、ふいと顔を背けた。
「……変なこと言うのね、あなたは」
その耳がほんの少し赤かったことには、ワタシは気づかないふりをした。
*
その帰り道。ワタシは一人、考えていた。
クラリスティアは、得難い人だ。志を同じくする、同志。貴族社会という、ワタシには手の届かない場所で戦おうとしている、頼もしい存在。
——でも。
ワタシはまだ、彼女に本当のことは言えない。
ワタシの隠した力のことも。あの鍛冶場の、灯のことも。すでに何人もの奴隷を解放してきたことも。——言えば、彼女を危険に巻き込む。それに、ワタシの活動は王国法では、紛れもない大罪なのだ。
(——いつか。本当に信じあえる日が来たら)
その時は、すべてを話そう。
そう思いながら、ワタシは暮れていく王都の空を見上げた。
氷が、少しずつとけていく。
その手応えを、確かに感じながら。




