第21話 誰もいない図書館で
あの実技演習から、しばらく。
ワタシはクラリスティアと、特に言葉を交わすことはなかった。向こうも、あの視線のことには触れてこない。互いに、ほどよい距離を保ったままだった。
それでも——ワタシはなんとなく、彼女のことが気になっていた。誰も見ていないところで使用人のために怒っていた、あの横顔。氷のバラと呼ばれる令嬢の、その奥にあるもの。
(——いや。近づかないって、決めたんだ)
関われば面倒なことになる。あの鋭さだ。下手に近づけば、ワタシの正体に勘づかれかねない。
だからワタシは、彼女を遠くから眺めるだけに留めていた。——そのつもりだった。
*
その夜のことだった。
ワタシは調べ物のために、学院の図書館に忍び込んでいた。
夜の図書館は、生徒の立ち入りが禁じられている。けれどワタシが探していたのは、昼間には人目があって読みづらい本だった。——王国の奴隷制度に関する、法と歴史の文献。
灯りを最小限に絞り、ワタシは目当ての棚へ向かった。隷紋の管理制度、奴隷の所有権に関する法、過去の身分制度の変遷。表向きの「そこそこの三男」が読むには、いささか剣呑な本ばかりだ。
(——さて。この辺りに……)
ワタシが奥の書架に手を伸ばした、その時。
書架の向こう側に、人の気配があった。
(——!?)
ワタシは息を潜めた。
誰だ。こんな時間に、ワタシのほかに図書館へ忍び込んでいる者が。
そっと書架の隙間から、向こうを覗く。
そこにいたのは——クラリスティアだった。
ランプの灯りの下、彼女は一人、机に向かって熱心に本を読んでいた。その真剣な横顔は、昼間の凍りついた表情とは、まるで違う。
そしてワタシは、彼女が広げている本の背表紙を見て、息を呑んだ。
『奴隷制度とその法的課題』。
ワタシがまさに手に取ろうとしていたのと、同じ系統の本。それを彼女もまた、夜中に一人、隠れるように読んでいる。
(——なんで、この人が)
ワタシの思考がぐるぐると回った。
オルブライト侯爵家の令嬢。氷のバラ。この国の最上層に位置する大貴族の娘が、なぜ奴隷制度とその法的課題などという危うい主題の本を、人目を忍んで読んでいる——?
その時。動揺したワタシは、つい足元の本に肘をぶつけてしまった。
ばさり、と本が床に落ちる。
「——誰!?」
クラリスティアが弾かれたように立ち上がった。その手には、いつの間にか護身用らしき短い杖が握られている。深い緑の瞳が、鋭く闇を射抜いた。
(——しまった!)
隠れても、もう遅い。ワタシは観念して、書架の陰から姿を現した。
「……えっと。こんばんは」
「——あなたは」
クラリスティアの目が、わずかに見開かれた。
「実技演習の……辺境伯家の。確か、ルキウス・フォン・アーデルハイト」
(——名前、覚えられてる)
ワタシは内心で冷や汗をかいた。「可もなく不可もない子」のはずが、しっかり認識されている。あの初対面の、鑑定のせいだろうか。
「こんな時間に、何をしているの。ここは夜は立ち入り禁止のはずよ」
「それは……えっと。お互いさま、では?」
ワタシがそう言うと、クラリスティアの頬がほんの少し強張った。
彼女の手元の本をワタシが見たことに、気づいたのだ。
沈黙が流れた。
ワタシたちは、しばし見つめ合った。互いに、見られたくないものを見られた者同士の、気まずい沈黙だった。
やがてクラリスティアが、ふっと息を吐いて、杖を下ろした。
「……あなたも、その手の本を探しに来たのね」
彼女の視線が、ワタシの足元の本——『奴隷の所有権に関する諸法』に向けられていた。
「……まあ、はい」
ごまかしても無駄だと思った。彼女の目は、ごまかせない。
「辺境伯家の三男が、なぜこんな本を?」
「……それは、こっちの台詞です。侯爵家のご令嬢が、なぜ?」
また沈黙。
今度の沈黙は、さっきとは少し種類が違った。互いの心の内を、探り合うような沈黙。
先に口を開いたのは、クラリスティアだった。
「——おかしいと、思わない?」
彼女は静かに言った。窓の外の月を見上げながら。
「人が人を、物のように売り買いする。生まれた身分で、すべてが決まる。それを誰もが当たり前だと思っている。——わたくしはずっと、それがおかしいと思っていた」
(——っ)
ワタシの心臓が跳ねた。
「でも、こんなこと。口にすれば笑われる。『侯爵家の令嬢が、何を世迷い言を』と。だからわたくしは、誰にも言わずに、一人で調べていたの。この国の仕組みを。変えるための、手がかりを」
彼女はワタシを見た。その深い緑の瞳に、もう氷はなかった。
あるのは——孤独な、けれどまっすぐな、理想の炎。
「——あなたは、笑う?」
(——ああ)
ワタシは思った。
この人は、ずっと一人だったんだ。
誰にも言えずに。誰にもわかってもらえずに。「氷のバラ」という仮面の下で、たった一人、この国の歪みと向き合っていた。
——ワタシと、同じだ。
いや。ワタシには女神がいて、家族がいて、セバスや仲間がいた。でもこの人は、たった一人で。
「……笑いません」
ワタシは静かに答えた。
「ワタシも——同じことを、思っていますから」
クラリスティアの目が、大きく見開かれた。
その瞬間、彼女の表情に走ったのは、驚きと——そして、隠しきれない安堵のようなもの。
たぶん、生まれて初めて出会ったのだ。
自分と同じことを考えている人間に。




