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第21話 誰もいない図書館で

 あの実技演習から、しばらく。


 ワタシはクラリスティアと、特に言葉を交わすことはなかった。向こうも、あの視線のことには触れてこない。互いに、ほどよい距離を保ったままだった。


 それでも——ワタシはなんとなく、彼女のことが気になっていた。誰も見ていないところで使用人のために怒っていた、あの横顔。氷のバラと呼ばれる令嬢の、その奥にあるもの。


(——いや。近づかないって、決めたんだ)


 関われば面倒なことになる。あの鋭さだ。下手に近づけば、ワタシの正体に勘づかれかねない。


 だからワタシは、彼女を遠くから眺めるだけに留めていた。——そのつもりだった。



 その夜のことだった。


 ワタシは調べ物のために、学院の図書館に忍び込んでいた。


 夜の図書館は、生徒の立ち入りが禁じられている。けれどワタシが探していたのは、昼間には人目があって読みづらい本だった。——王国の奴隷制度に関する、法と歴史の文献。


 灯りを最小限に絞り、ワタシは目当ての棚へ向かった。隷紋の管理制度、奴隷の所有権に関する法、過去の身分制度の変遷。表向きの「そこそこの三男」が読むには、いささか剣呑な本ばかりだ。


(——さて。この辺りに……)


 ワタシが奥の書架に手を伸ばした、その時。


 書架の向こう側に、人の気配があった。


(——!?)


 ワタシは息を潜めた。


 誰だ。こんな時間に、ワタシのほかに図書館へ忍び込んでいる者が。


 そっと書架の隙間から、向こうを覗く。


 そこにいたのは——クラリスティアだった。


 ランプの灯りの下、彼女は一人、机に向かって熱心に本を読んでいた。その真剣な横顔は、昼間の凍りついた表情とは、まるで違う。


 そしてワタシは、彼女が広げている本の背表紙を見て、息を呑んだ。


 『奴隷制度とその法的課題』。


 ワタシがまさに手に取ろうとしていたのと、同じ系統の本。それを彼女もまた、夜中に一人、隠れるように読んでいる。


(——なんで、この人が)


 ワタシの思考がぐるぐると回った。


 オルブライト侯爵家の令嬢。氷のバラ。この国の最上層に位置する大貴族の娘が、なぜ奴隷制度とその法的課題などという危うい主題の本を、人目を忍んで読んでいる——?


 その時。動揺したワタシは、つい足元の本に肘をぶつけてしまった。


 ばさり、と本が床に落ちる。


「——誰!?」


 クラリスティアが弾かれたように立ち上がった。その手には、いつの間にか護身用らしき短い杖が握られている。深い緑の瞳が、鋭く闇を射抜いた。


(——しまった!)


 隠れても、もう遅い。ワタシは観念して、書架の陰から姿を現した。


「……えっと。こんばんは」


「——あなたは」


 クラリスティアの目が、わずかに見開かれた。


「実技演習の……辺境伯家の。確か、ルキウス・フォン・アーデルハイト」


(——名前、覚えられてる)


 ワタシは内心で冷や汗をかいた。「可もなく不可もない子」のはずが、しっかり認識されている。あの初対面の、鑑定のせいだろうか。


「こんな時間に、何をしているの。ここは夜は立ち入り禁止のはずよ」


「それは……えっと。お互いさま、では?」


 ワタシがそう言うと、クラリスティアの頬がほんの少し強張った。


 彼女の手元の本をワタシが見たことに、気づいたのだ。


 沈黙が流れた。


 ワタシたちは、しばし見つめ合った。互いに、見られたくないものを見られた者同士の、気まずい沈黙だった。


 やがてクラリスティアが、ふっと息を吐いて、杖を下ろした。


「……あなたも、その手の本を探しに来たのね」


 彼女の視線が、ワタシの足元の本——『奴隷の所有権に関する諸法』に向けられていた。


「……まあ、はい」


 ごまかしても無駄だと思った。彼女の目は、ごまかせない。


「辺境伯家の三男が、なぜこんな本を?」


「……それは、こっちの台詞です。侯爵家のご令嬢が、なぜ?」


 また沈黙。


 今度の沈黙は、さっきとは少し種類が違った。互いの心の内を、探り合うような沈黙。


 先に口を開いたのは、クラリスティアだった。


「——おかしいと、思わない?」


 彼女は静かに言った。窓の外の月を見上げながら。


「人が人を、物のように売り買いする。生まれた身分で、すべてが決まる。それを誰もが当たり前だと思っている。——わたくしはずっと、それがおかしいと思っていた」


(——っ)


 ワタシの心臓が跳ねた。


「でも、こんなこと。口にすれば笑われる。『侯爵家の令嬢が、何を世迷い言を』と。だからわたくしは、誰にも言わずに、一人で調べていたの。この国の仕組みを。変えるための、手がかりを」


 彼女はワタシを見た。その深い緑の瞳に、もう氷はなかった。


 あるのは——孤独な、けれどまっすぐな、理想の炎。


「——あなたは、笑う?」


(——ああ)


 ワタシは思った。


 この人は、ずっと一人だったんだ。


 誰にも言えずに。誰にもわかってもらえずに。「氷のバラ」という仮面の下で、たった一人、この国の歪みと向き合っていた。


 ——ワタシと、同じだ。


 いや。ワタシには女神がいて、家族がいて、セバスや仲間がいた。でもこの人は、たった一人で。


「……笑いません」


 ワタシは静かに答えた。


「ワタシも——同じことを、思っていますから」


 クラリスティアの目が、大きく見開かれた。


 その瞬間、彼女の表情に走ったのは、驚きと——そして、隠しきれない安堵のようなもの。


 たぶん、生まれて初めて出会ったのだ。


 自分と同じことを考えている人間に。


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