第2話 五歳児、魔法に人生を持っていかれる
転生して、まず最初にわかったことがある。
赤ん坊というのは、暇だ。
(やることがない……マジで、何も、ない)
手は短くて何も掴めない。首はすわらない。視界はぼんやり。喋れない。歩けない。前世のワタシなら「クソゲーかな?」と一行レビューを書いて投げ出しているところだが、あいにく投げ出す先がない。これがワタシの新しい人生だった。
唯一の救いは、人だった。
「ルキ、ルキ。今日もいい子にしてたかしら」
ワタシを抱き上げるのは、母——アーデルハイト辺境伯夫人、エルマだ。栗色の髪をゆるくまとめた、ふんわりした人で、辺境伯夫人という肩書きの厳めしさが一ミリも顔に出ていない。ワタシを抱くと、必ず鼻先をくっつけて、ふにふにと頬を揉む。
(やめて、頬。引っ張らないで、頬)
「あらやだ、この子ったら、まーた難しい顔して。ねえあなた、ルキったら赤ちゃんなのに哲学者みたいな顔をするのよ」
「ははは。三男ともなると、生まれながらに人生を達観しておるのかもしれんな」
豪快に笑うのは、父。辺境伯ガイウス。熊みたいな体格で、声がいちいち大きい。悪い人ではない。ないのだが、赤ん坊の耳元で笑うのはやめてほしい。鼓膜が、持っていかれる。
(声、デカ……このお父さん、ボイスの音量設定が常時マックスだ)
そして、ワタシを覗き込む、二つの小さな顔。
「ちっちゃい……手、ちっちゃい……」
うっとりと呟くのが、五つ上の姉、セリア。何かというとワタシの手を握って、その小ささに感動している。
「ふん。泣いてばっかりだな、こいつ」
つんけんしているのが、三つ上の次兄、レオ。口は悪いが、実はいちばん長くワタシのゆりかごの傍にいる。夜中にワタシが泣くと、誰より早く飛んでくるのも、たいていこの兄だった。口で言わないだけだ。
そして、この家には、もう一人。
ワタシより九つ上の、長兄ヴィルヘルム——通称ヴィル兄さんがいる。次期当主として、もう領地の仕事を手伝っていて、屋敷にいないことの方が多い。たまに帰ってくると、ワタシのゆりかごを覗き込んで、生真面目な顔で「健やかに育てよ」なんて、八つかそこらの子どもとは思えない大人びたことを言う。
(——跡取りってのは、大変なんだな)
長男ヴィル、次男レオ、長女セリア、そして三男のワタシ。それが、アーデルハイト家の、子どもたちだった。
——いい家族だな、と思う。
前世のワタシは、仕事ばかりで、家族とゆっくり過ごした記憶があまりない。母とは、最後まで、ちょっとした口論を引きずったままだった。だから、こうして、何の見返りもなく頬を揉まれ、手を握られ、見守られるというのは。
(——あったかいな)
なんだか、こそばゆくて、ワタシは、ふにゃ、と笑った。
「あっ! ルキが笑った! あなた! ルキが笑ったわ!」
「なにィ!? どれ、わしにも笑え! さあ! 笑うのだ!」
(圧が強い……笑えるものも笑えなくなる圧だ、これは)
*
月日というのは、赤ん坊にも平等に流れる。
ワタシは、すくすく育った。
言葉を覚え、よちよち歩き、やがて庭を駆け回るようになり——気づけば、五歳になっていた。
この五年、ワタシがこっそり進めていたことがある。情報収集だ。
なにせ、ここは異世界。前世のゲームで「それっぽい設定」は山ほど作ったが、本物の異世界のルールは、自分の足で確かめるしかない。ワタシは、屋敷の使用人にあれこれ質問し、兄の勉強を盗み聞きし、執事のセバスから世界の話を引き出した。
(——わかったこと。この世界には、身分制度がある。そして、奴隷が、いる)
女神が見せてくれた、あの値札の光景。あれは、比喩でも誇張でもなかった。この世界では、人が、売り買いされている。それも、ごく当たり前のこととして。
その事実は、五歳のワタシの胸の奥で、まだ小さな、けれど消えない熾火のように、ずっと燻っていた。
(焦るな。今のワタシは、ただの五歳児だ。力も、知識も、何もない。——一人ずつ、手の届く範囲から。そうだろ、アステリア)
まだ、何もできない。だから、今は、ただ準備をする。それだけだ。
——と、殊勝なことを考えていた、その日のことだった。
ワタシの人生が、別の方向に、思いっきり持っていかれたのは。
*
「本日より、坊っちゃまには、初歩の魔法を学んでいただきます」
屋敷の一室。そう言って恭しく頭を下げたのは、家庭教師として雇われた、若い魔導士の女性だった。
(魔法)
その単語に、ワタシの心臓が、とん、と跳ねた。
そうだ。この世界には、魔法が、ある。知識としては知っていた。兄のレオも、簡単な火種くらいは出せると自慢していた。でも、実際にこの目で見るのは——自分でやるのは、初めてだ。
「では、まずはお手本を。——『灯れ』」
魔導士の女性が、指先を、すっと立てた。
その指の先に。
ぽうっ、と。
小さな、オレンジ色の、光が。灯った。
ろうそくの炎ほどの、ささやかな光。なんてことのない、初歩の生活魔法。きっと、この世界の人にとっては、見飽きた、当たり前の光景。
でも。
ワタシは。
「……っ」
息を、呑んだ。
本物だ。
本物の、魔法だ。
CGじゃない。エフェクトじゃない。プログラムされた数値の集合じゃない。今、目の前で、何もないところから、光が、生まれた。物理法則を、平気な顔で飛び越えて。
(——うわ)
(うわ、うわ、うわ)
(魔法だ。本物の、魔法だ……!)
前世で、ワタシは、何百という魔法を「作った」。火の玉、回復、結界、召喚。数えきれないほどの魔法を、データとして、設計して、調整して、実装した。
でも、それは全部、嘘の魔法だった。画面の中の、約束事の魔法。
本物を、ワタシは、一度も、見たことがなかった。
「——どうされました、坊っちゃま?」
魔導士の女性が、不思議そうに首をかしげた。
その時、ワタシが、どんな顔をしていたか。
たぶん、五歳児がするには、あまりにも真剣すぎる顔だったと思う。
「……もう、いっかい」
「え?」
「もう一回、見せてください。お願いします」
ワタシは、女性の手元に、食い入るように、顔を近づけた。
どうやって。どういう仕組みで。何が起きて、あの光が、生まれているのか。
「『灯れ』」
ぽうっ、と、また光が灯る。
(——見えた)
ワタシの中で、何かが、ぞわりと、動いた。
光そのものじゃない。その手前。指先に集まる、ゆらめくような、目に見えない「流れ」のようなもの。それが、ある形に整えられて、光に変わる。その、瞬間の、構造。
(これは——なんだ? この、流れ。これを、こう、整えると——光に、なる?)
前世で、ワタシが、いちばん得意だったこと。
それは、システムを、分解して、理解することだった。
どんなに複雑なゲームシステムも、ばらして、仕組みを掴んで、再構築する。それが、ワタシの、仕事で、特技で——たぶん、生まれ持った、性分だった。
その「目」が、今。
本物の魔法に、向けられた。
(——おもしろ)
ぞくり、と。背筋が、震えた。
久しく、忘れていた感覚だった。何かに、夢中になる感覚。寝るのも食うのも忘れて、ただひたすら、一つのことに、のめり込む。あの、感覚。
「先生」
「は、はい」
「ワタシに、魔法を、教えてください。ぜんぶ。いちばん最初から、いちばん奥まで」
「……はい?」
目を丸くする女性に、ワタシは、たぶん、五歳児らしからぬ笑顔で、こう言った。
「徹夜は、得意なので」
「五歳児が言う言葉ではないですね!?」
*
その夜のことを、後年、アーデルハイト家の使用人たちは、こう語り継いだという。
——三男坊っちゃまが、魔法に出会って、人が変わった、と。
その日から、ルキウス・フォン・アーデルハイトは、魔法の研究に、没頭した。
朝、誰よりも早く起きて、魔力の流れを観察する。昼、家庭教師を質問攻めにして、半泣きにさせる。夜、ろうそくの明かりで、こっそり一人、指先に意識を集中させる——光が、灯るまで。
もちろん、初めから、上手くいくはずもなかった。五歳の体は、魔力も少なく、制御も拙い。何度やっても、光は灯らない。指先が、ぴりぴりするばかり。
それでも、ワタシは、やめなかった。
(——前世で、五年かけて、一本のゲームを作った)
地味な作業の、繰り返しだった。数値を、一つずつ、調整する。何百回も、テストする。誰にも褒められない、報われるかもわからない、ひたすら地道な、積み重ね。
(それに比べたら——魔法の練習なんて)
ワタシは、暗い部屋で、一人、にやりと笑った。
(——ぜんぜん、苦じゃない)
指先に、意識を、集める。あの「流れ」を、思い出す。そっと、整える。少しずつ、少しずつ。
ぽ。
その夜。
ワタシの指先に、生まれて初めて——本当に小さな、けれど、確かな、光が。
灯った。
「…………よし」
誰も見ていない、暗い部屋。
五歳のワタシは、握りこぶしを、きゅっと固めた。
これが。
この、地道で、誰にも気づかれない、小さな光の積み重ねが。
いつか、この世界を、変える力になるなんて——
この時のワタシは、まだ、ちっとも、知らなかった。
*
ちなみに。
翌朝、目の下に立派なクマを作ったワタシを見て、母は悲鳴を上げ、父は「わしの息子は五歳にして求道者か!」と謎の感動をし、姉は「ルキ、お顔がパンダさんみたい……」と心配し、兄のレオだけが、ふん、と鼻を鳴らして、こう言った。
「……ほどほどにしとけよ。倒れたら、知らねえからな」
そう言って、自分の朝食のパンを、ワタシの皿に、ぽいと一つ、放ってよこした。
(——うん)
(やっぱり、いい家族だ)
ワタシは、もそもそとパンを齧りながら、思った。
まだ、何の力もない、ただの五歳児。
でも、こうして、支えてくれる人がいる。
それだけで、ワタシは、たぶん、どこまでだって、頑張れる気がした。




