第1話 ゲームの神様は、たぶん残業を知らない
人生最後の記憶が、保存し忘れたセーブデータだったというのは、我ながらどうかと思う。
高槻陽介、二十九歳。ゲームクリエイター。最後に見たのは、三徹明けのモニターに浮かぶ「応答なし」の四文字だった。
一作目の『リーグナム・クロニクル』が、思いがけず売れた。地味な国づくりゲームのはずが、口コミでじわじわ広がって、続編を作れることになった。夢みたいな話だった。だから——その続編の、奴隷解放システムの拡張パートを組んでいる最中に、コーヒーをもう一杯、と立ち上がって。
そこから先の記憶がない。
たぶん、立ち上がれていない。
気づけば、ワタシは光の中にいた。
白い。とにかく白い。床も天井も壁も、いや、そもそも床や天井という概念があるのかも怪しい、ただ柔らかな光だけが満ちた場所。視界の端で、何かがふわふわと揺れている。
長い金髪だ。若葉色の瞳。白い衣をまとった、誰がどう見ても「そういう存在」としか言いようのない少女が、ワタシの顔を覗き込んでいた。
「あ、起きた」
(——出た。出ましたよこれ。テンプレの女神様だ)
ワタシの脳内で、十数年ぶんのゲーム制作の経験が一斉に手を挙げた。白い空間。神々しい美少女。死んだ直後。この状況に名前をつけるなら一つしかない。
(転生だ。これは転生のチュートリアルシーンだ)
「ふふ。チュートリアル、って顔してるね」
「うわ心読まれてる」
「神様だからね」
えへん、と薄い胸を張る女神様。神様にしては随分と所作が軽い。ワタシが知っているテンプレの女神は、もっとこう、厳かに微笑んで「選ばれし者よ」とか言うものだと相場が決まっているのだが。
(しかも演出がない。BGMもない。SEもない。チュートリアルなのに、UIも出てない。——これ、ワタシが作ってたら絶対リテイク食らうやつだ)
「いま、わたしの登場シーンにダメ出しした?」
「してないです」
「したよね?」
「神様だからってそこまで読まないでください」
「わたしはアステリア。慈愛と豊穣を司る、まあ、ざっくり言うと女神」
「ざっくり言いましたね今」
「細かいことはいいの。それより高槻陽介くん。きみ、死んじゃったよ」
あまりに軽い宣告だった。あまりに軽すぎて、かえってすとんと胸に落ちた。
ああ、死んだのか、ワタシ。
不思議と、悲しくはなかった。痛みも、未練も、思ったより薄い。ただ——母さんの顔と、まだ口論したまま仲直りできていなかった友人の顔が、順番に浮かんで、消えた。それだけが、ほんの少し、喉の奥に引っかかった。
「……そっか」
「うん。過労でね。会社、もうちょっと人を雇うべきだったと思う」
「神様が労務問題に踏み込んでくる」
「だってひどいんだもん」
アステリアは、ぷう、と頬を膨らませた。神様のくせに、表情がころころ変わる。怒ったり、拗ねたり、今は——少しだけ、申し訳なさそうに。
「本当はね。きみみたいに、まだやりたいことが残ってる人を連れてくるの、わたし、好きじゃないんだ」
「じゃあなんで連れてきたんですか」
「見てたから」
女神の声が、ふっと、温度を変えた。
「きみの作ったゲーム。ずっと見てたの。星越しに」
ワタシは、目を瞬かせた。
ワタシが五年かけて作った、一作目のゲーム、『リーグナム・クロニクル』。プレイヤーが領主になって、国を育てる。農業も、産業も、外交も。そして——身分制度の改革も、奴隷解放も、達成度に応じて、ちゃんと実装した。地味で、誰も気づかないかもしれない要素だった。発売前は、正直、こんな要素、誰も遊ばないと思っていた。
「あのゲームの、奴隷解放ルート」
アステリアは、若葉色の瞳をまっすぐワタシに向けた。
「クリアするのに、何百時間もかける人が、いっぱいいたでしょう」
「……いましたね」
いた。確かに、いた。発売してみたら、思いがけず、いたのだ。
効率だけ考えれば、絶対にやらないルートだった。手間ばかりかかって、報酬は薄い。それでも、何人かのプレイヤーは、何百時間もかけて、ゲームの中の奴隷を一人残らず解放しようとした。攻略サイトに、長い長い手順を書き残していた人もいた。
ワタシは、その書き込みを見たとき、画面の前で、ちょっとだけ泣いたのだ。
(ゲームの中だけでも、せめて、理想の世界を作りたかった)
それが、あのゲームを作った理由の、いちばん奥にあった気持ちだった。誰にも言ったことはない。
「知ってるよ」
アステリアが、静かに言った。
「言ってないのに」
「神様だからね」
今度のそれは、さっきの軽口とは、少し違う響きだった。
女神は、ふっと身を引いて、白い空間に手をかざした。光が割れて、その向こうに——景色が、滲んだ。
石畳の広場。木組みの家々。中世の絵本めいた、美しい街並み。けれど、その広場の中央に、鎖につながれた人々が、列をなして立っていた。
値札を、首から下げて。
「これが、わたしの世界——テラリス。その中の、エルデリアっていう王国」
声が、湿っていた。
「千年、変わらないの。誰も、変えられないの。身分は女神の定めた秩序です、って——わたしの名前を使って、そう教える人たちがいてね」
アステリアの目に、見る間に涙が盛り上がった。神様が、泣く。豊穣の女神が、自分の名を騙られて、子どものように泣く。
「わたし、神様なのに。直接は、なんにもできないんだ。手を伸ばしても、すり抜けちゃう。ただ、見てることしか、できない」
ぽろぽろと、涙がこぼれた。白い空間に、しずくが落ちて、小さな光になって消える。
「千年、見てたんだよ。あの子たちが、売られて、買われて、首に値札を下げられて。『これは女神様のお決めになった秩序です』って、わたしの名前で、そう言われるのを。——わたし、一度も、決めてないのに」
女神は、ぐい、と袖で顔を拭った。神々しさのかけらもない、思いっきり鼻をすする音がした。
「ぶっ……ずびっ……ごめんね、神様なのに、みっともなくて」
「いや、ティッシュ……あっ、ここ白い空間だからティッシュもないか」
「きみ、こういうときに細かいね!?」
「すみません職業病で」
アステリアは、ふへ、と少しだけ笑って、それから、すっと真顔に戻った。涙の跡が、まだ頬に光っている。その目が、まっすぐ、ワタシを射抜いた。
「ねえ、陽介くん。わたし、ずっと、待ってたんだ」
声が、震えていた。
「力の強い人なら、何人も生まれた。剣の天才も、魔法の天才も、英雄も。でもね、みんな、力で何かを叩き潰すか、力に潰されるか、どっちかだった。誰も——誰も、あの子たちを、『一人ずつ』なんて、見てくれなかった」
女神は、両手を、胸の前で、ぎゅっと握った。お願いごとをする子どものような、その仕草で。
「だから、お願い。きみに、お願いしたいの」
深く、頭を下げた。神様が。人間に。
「あの世界を、見てあげて。あの子たちを、一人ずつでいいから、見てあげて。きみが昔、ゲームの中でやってたみたいに。——お願い、します」
(——ああ、ずるい)
ワタシは、天井(があるのかも怪しい白い空間の上の方)を、見上げた。
ずるい。本当に、ずるい。こんな、泣きじゃくった神様に、こんな風に頭を下げられて。断れる人間が、どこにいる。
(——ああ)
ワタシは、なんとなく、わかってしまった。
なぜ、ワタシなのか。
英雄でもない。革命家でもない。政治の専門家ですらない。ただの、ゲーム会社の中堅プランナー。本物の苦しみなんて、背負ったことのない、普通の日本人。
それでも、この女神は、ワタシを見ていた。ゲームの中で、誰にも気づかれず、せっせと理想の国を作っていた、ワタシを。
「あの、頭、上げてください。神様に頭下げられると、寿命が縮む……あ、もう死んでるか」
「自分でツッコまないで」
「言っとくけど」
ワタシは、頬を掻いた。
「ワタシ、強くないですよ。ゲームの中で国を作ってただけで。剣も握ったことないし、人の上に立ったこともない。期待されても、困る」
「うん。知ってる」
「即答」
「でもね」
アステリアは、ようやく頭を上げて、笑った。ぐしゃぐしゃの、けれど、ひどく綺麗な笑顔だった。
「強い人を連れてきたら、力で押し切っちゃうでしょ。それじゃ、また同じことの繰り返しなんだ。秩序を、力で塗り替えるだけ。わたしが欲しいのは、そういうのじゃない」
女神は、一歩、ワタシに近づいた。
「コツコツ、できる人がいい。誰にも気づかれなくても、一人ずつ、手の届く範囲から。何百時間でも、かけられる人がいい。——きみみたいな人が、いい」
「……買いかぶりですよ。それ」
「神様の目は、確かなの」
「さっき泣きすぎて目、真っ赤ですけど」
「うるさいなあ!」
白い光が、ワタシの胸のあたりに、ともった。
「ひとつだけ、贈り物をするね。『鑑定』。人の本当の力も、隠された才能も、見抜けるようになる。それと——」
アステリアは、少しだけ、いたずらっぽく付け足した。
「魔法。これは、贈り物じゃない。きみが、自分の手で、どこまで伸ばせるか。それは、きみ次第」
(自分の手で、か)
ワタシは、その言葉を、口の中で転がした。
与えられた力じゃない。努力で掴む力。——なんだ、それなら。それなら、ワタシにも、少しは覚えがある。三徹くらい、平気でやってきた人間だ。
「最後に、聞かせて」
光が強くなる。視界が、白く溶けていく。アステリアの声だけが、近くに残った。
「弱音、聞いてあげるよ。いっぱい吐いてね。わたしだけは、きみの弱いところも、知ってていいから」
「……それ、けっこう、ずるい言い方ですね」
「神様だからね」
最後に聞いたのは、その、軽くて、温かい一言だった。
そうして、ワタシは——いや、これからのワタシは。
光の向こうへ、落ちていった。
*
次に意識が浮かんだとき、ワタシは、自分の手のひらを見ていた。
小さい。やわらかい。赤ん坊の、手だ。
(——転生、完了、と)
天井が高い。見上げた先に、品のいい刺繍の天蓋。誰かが、ワタシを抱いて、優しく揺らしている。「アーデルハイト家の、三番目の坊っちゃまですよ」と、誰かが言うのが聞こえた。
辺境伯家の、三男。家督相続権は、低い。
(——上等だ)
目立たない。誰にも、期待されない。自由が利く。
まだ、なんの力もない。鑑定も、魔法も、これから。けれど、胸の奥には、もう、種が二つ、蒔かれていた。
ひとつ。いつか、この手で、魔法を、どこまでも伸ばすこと。
ひとつ。いつか、この世界の、首に値札を下げた人たちを——一人ずつ、手の届く範囲から。
誰にも気づかれなくても、いい。何百時間でも、かけてやる。
それが、ゲームの中で、ワタシがずっとやってきたことなのだから。
名前を、もらった。
ルキウス・フォン・アーデルハイト。
愛称は、ルキ、というらしい。
(——よし。二周目、始めるか)
赤ん坊のルキは、ふにゃ、と、誰にも意味のわからない笑みを浮かべて、こぶしを、きゅっと握った。




