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第18話 三年の灯

 月日が過ぎるのは早い。


 フィーを救ったあの日から、気づけば三年が経っていた。


 ワタシは十五歳になった。



 この三年で『アステリアの灯』は、少しずつ、しかし確かに根を張った。


 まず、商いだ。


 ニコの才は本物だった。彼が目をつけたのは、「身内で作って、身内で売る」仕組みだった。


 メイアが調合する薬や、傷によく効く軟膏。解放した元奴隷たちが手がける、刺繍や、細工物。辺境でしか採れない薬草や鉱石。——そういったものを、ニコが束ね、目利きし、領都やよその街へ運んで売りさばく。


「いいか。施しじゃ、人は救えねえんだ」と、ニコは口癖のように言った。「救った奴に、稼ぐ手立てを持たせる。そいつが稼いだ金で、また次の奴を救う。——そうやって、ぐるぐる回すのさ」


 解放された者が、作り手になる。ニコが、それを売る。生まれた利益で、また次の誰かを解放する。小さいながらも、自分たちで回る、一つの循環ができあがりつつあった。


 表向きは、「辺境伯家が、行き場のない者を雇って働かせている、慈善の作業場」。誰も、その裏で奴隷が解放されているとは、思わない。


 拠点も、変わった。


 最初は、打ち捨てられた鍛冶場の、片隅の一室だけだった。それが今では、鍛冶場に隣り合う、古い納屋や物置にまで広がっている。寝起きする部屋。メイアの薬房。元奴隷たちの作業場。ニコが帳簿をつける、帳場。——忘れられた廃屋の一角は、いつしか、ささやかな活気の宿る、小さな隠れ里のようになっていた。


 人が増えれば、住む場所も要る。近頃は、拠点のさらに奥——森にほど近い一帯を、少しずつ切り拓いて、畑を作り、家を建て始めていた。解放された者、行き場をなくした者たちが、身を寄せ合って暮らす、小さな集落の芽。いつか、ここが、一つの村になる日も、来るのかもしれない。


 メイアの薬房は、外でも評判を呼んだ。領内の病人が彼女を頼って訪れるようになり、「足の悪い薄気味悪い女」と陰口を叩いていた村人たちは、今では「メイア先生」と敬意を込めて呼ぶ。彼女の治癒魔法も、ワタシの手ほどきで見違えるほど伸びた。


 解放した仲間は二十人を超えた。


 数だけ見ればささやかなものだ。この国に何万といる奴隷からすれば、ひとしずくにも満たない。それでも、その一人ひとりに名前があり、顔があり、取り戻した人生がある。ワタシはそのことを誇りに思っていた。


 もちろん、ワタシ自身の力も磨き続けた。隷紋の解除は、初めの頃は何時間もかかったのに、今ではずっと速く確実になった。魔力も制御も、三年前とは比べ物にならない。相変わらず人前では「ちょっと出来のいい三男」を演じ続けているけれど。


 そして、いちばん変わったのは。



「ルキさま! 見てください、これ!」


 その日、フィーがワタシのところへ駆けてきた。


 手には焼きたてのパイ。メイアの薬草を使った滋養のあるパイで、最近のフィーは厨房に立つのが好きらしい。


「わたしが焼いたんです。トマさんに香りの合わせ方を教わって。——どう、ですか?」


「うん。すごく、いい匂いだ」


 ワタシは一口かじった。素朴で優しい味がした。


「——うん。おいしい。フィー、料理上手になったね」


 その瞬間。


 フィーが、ぱあっと笑った。


 声を立てて。心の底から嬉しそうに。


「——えへへ。よかった!」


(——っ)


 ワタシはパイを持ったまま固まった。


 笑った。フィーが。声を上げて。


 あの、感情を失っていた少女。「好きなものは?」と訊いても「わかりません」としか答えられず、瞳には何も映っていなかった、あの子が。


 今、ワタシの目の前で、なんでもないパイ一切れのことで、当たり前の子どものように無邪気に笑っている。


 三年かかった。


 一歩ずつ。少しずつ。「あかいほうがいい」と言えて、自分で服を選べて、人に寄り添えるようになって——そして今、ようやく。


 声を上げて笑える日が、来た。


(——よかった。本当に、よかった)


 ワタシはこみ上げるものを堪えて、笑い返した。


「……ルキさま? どうかしましたか?」


「ううん。なんでもない。ただ——フィーが笑ってくれて、嬉しいな、って」


 フィーはきょとんとして、それからまた、少し照れたように笑った。


 その笑顔には、もう、どこにも鎖の影はなかった。



 ただ、順風満帆というわけでもなかった。


 闇商人の件は、あれきり大きな動きはなかった。末端を潰され、元締めもしばらくは鳴りを潜めているらしい。けれどニコは油断していなかった。


「奴らは忘れちゃいねえよ。——ただ今は、機をうかがってるだけだ」


 その言葉が、ワタシの胸の片隅に、小さな棘のように残っていた。


 それに、ワタシの活動は、領内ではもう限界に近づきつつあった。辺境の領でこっそり救える奴隷の数には、限りがある。本気でもっと多くを救いたいなら——もっと広い世界へ。人も物も情報も集まる場所へ。


(——そろそろ、かもしれない)



 その夜。ワタシは父の執務室に呼ばれた。


 そこには父ガイウスと、めずらしく長兄ヴィルヘルムもいた。


「ルキ。お前も十五だ」


 父がいつになく改まった声で切り出した。


「——王都の魔法学院へ、行ってみる気はないか」


(——王都の、魔法学院)


 ワタシの鼓動が跳ねた。


「お前の魔法の腕は、まあ『そこそこ』だが」


 父はワタシが演じてきた「そこそこ」を信じたまま続けた。


「学院でちゃんと学べば、貴族として箔も付く。三男のお前がこれから身を立てるにも、悪い話じゃなかろう」


 ワタシはちらりとヴィルを見た。


 ヴィルは腕を組み、静かにワタシを見ていた。その目が何を考えているのか、三年経った今でも読みきれない。


「……兄さんは、どう思いますか」


 ワタシが訊くと、ヴィルは少し間を置いて答えた。


「……お前が決めることだ」


 それだけ言って、それからほんの少し声を和らげた。


「ただ——外の世界は広い。辺境の常識は通じん。よく見て、よく学んでこい。——それと」


 ヴィルはワタシの目をまっすぐ見た。


「無茶はするなよ。——お前は優しすぎる。それが心配だ」


(——兄さん)


 ワタシは胸が詰まった。


 この兄は何も知らない。ワタシの本当の力も、あの鍛冶場の灯のことも。それでも、弟のことをちゃんと見て、案じてくれている。


 ワタシは深く頷いた。


「……行きます。王都の魔法学院へ」


 それは、家のための箔付け——ではなかった。


 もっと広い世界で、もっと多くの救えるはずの命に手を伸ばすため。『アステリアの灯』を、この辺境からもっと大きな場所へ広げるため。


 ワタシの本当の戦いは、ここから新しい舞台へと移ろうとしていた。



 旅立ちの朝。


 鍛冶場跡地の『アステリアの灯』で、ワタシは灯の仲間たちと向き合った。


 王都へは、ワタシとフィー、そしてセバスが向かう。ニコは、辺境に残る。


「留守の間、ここは頼んだ。——ニコ、辺境の灯は、君に任せる」


「おうよ。任せときな、旦那」


 ニコが、にっと笑った。


「こっちはこっちで、しっかり回すさ。——それに、いつまでも、おれがここに、かかりきりってわけにも、いかねえだろ? だから今、若いのを、一人、みっちり仕込んでる。そいつが、一人前になって、この辺境を任せられるように、なったら——おれも、旦那を追って、王都に行かせてもらうぜ。商売の本場は、やっぱり、都だからな」


「——うん。待ってるよ、ニコ」


 頼もしい男だ。ワタシが辺境を離れても、ここの灯は、消えない。ニコが守り、育て、いつか後を託して——そうして、王都のワタシと、また合流する。その日を、楽しみにしよう。


 一方のセバスは、当然のような顔で、ワタシの旅装を整えていた。


「セバスは、本当に、一緒に来てくれるの? 辺境の暮らしを、離れることに、なるけど」


「何を、今さら」


 セバスは、静かに、けれど、きっぱりと言った。


「坊っちゃまの、行かれるところへ。私も、まいります。——王都では、右も左も、わからぬことばかり。貴族社会の、しきたりも、人脈も。老いぼれの、経験が、お役に立つことも、ございましょう。それに——」


 セバスは、ふっと、目を細めた。


「坊っちゃまお一人を、あの、魔窟のような王都へ、送り出しては。あの世で、先の後悔に、また一つ、悔いを重ねることに、なりますゆえ」


(——セバス)


 この人は、どこまでも、ワタシの傍にいてくれるつもりなのだ。ワタシは、胸が、温かくなった。



 そんな、旅立ちの支度の、傍らで。


 拠点の一角から、澄んだ歌声が、聞こえてきた。


 まだ、あどけない、少女の声。年の頃は、十かそこら。亜麻色の髪を揺らして、繕い物をする女たちのそばで、鼻歌のように、歌っている。


 あの子は——去年、闇商人から助け出した、子どもたちの一人だ。身寄りがなく、行き場もなかったので、ニコたちが、この拠点に連れてきた。今では、すっかり、灯の家族の一員だ。


 不思議な子だった。あの子が歌うと、なぜだか、その場の空気が、ふっと和らぐ。ささくれた心が、なだめられる。——それに。


(——そういえば。あの子が、よく歌っている辺りには。近頃、森の獣も、めっきり、寄りつかなくなった、とか)


 ただの、偶然だろうか。それとも——。


(……いや。今は、考えても、仕方ないか)


 ワタシは、小さく、首を振った。あの子の歌に、何かがあるのだとしても。それを解き明かすのは、また、いつかのことだ。


 ただ、澄んだその歌声は、旅立つワタシの背を、優しく、押してくれるようだった。



 そしてフィーが、一歩前に出た。


「ルキさま。——わたしも、連れて行ってください」


 まっすぐな声だった。三年前の消え入りそうな声とは、まるで違う。


「わたしは、ルキさまにもらったこの自由を、ルキさまの行く先で使いたいんです。——おそばに、置いてください」


 ワタシはフィーの薄紫の瞳を見た。


 そこにはもう、迷いも諦めもなかった。ただまっすぐな意思だけが宿っていた。


 自分の意思で。自分の足で立って。彼女は選んだのだ。ワタシの隣を行くことを。


「——うん。一緒に行こう、フィー」


 こうしてワタシたちは、辺境を後にした。


 新しい舞台、王都へ。


 まだ見ぬ出会いと、波乱の待つ場所へ。


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