第17話 不運な男
刃が、振り下ろされる。
その、一瞬。
ワタシは、全力で——いや。
全力は、出さない。出せない。ここで派手にやれば、すべてが終わる。
ワタシが選んだのは、髪一本ぶんの、極限まで絞った、魔力操作だった。
男が踏み込む、その足の真下。ワタシは地面のほんの一点だけを、瞬間的に凍らせた。氷の張った、ごく小さな面。誰の目にも、ただの濡れた石にしか見えない。
ずるっ——と、男の軸足が、滑った。
「——っ!?」
渾身の斬撃が、大きく、逸れる。刃は、ワタシの頭上を、空しく薙いだ。
(——よし)
でも、相手は、ただの荒くれ者ではない。崩れた体勢を、瞬時に立て直し、男はぎろりとワタシを睨んだ。
「……今のは、なんだ。足元に、何を、しやがった」
(——っ、鋭い)
やはり、頭は違う。一度の偶然では、ごまかしきれない。
それでも、ワタシは、平然と、首をかしげてみせた。十二歳の、間の抜けた顔で。
「え? おじさん、転んだの? 廃村の地面、ぬかるんでて、危ないよね」
「……ガキが」
男は、苛立たしげに、舌打ちした。けれど、その目の警戒は、解けていない。
(——時間を、稼がないと)
ワタシは、考えた。全力は、出せない。でも、この男を、本気にさせるわけにも、いかない。だから——「ちょっと運のいい、生意気な子ども」を、演じきる。それしか、ない。
男が、再び、剣を構えた。
今度は、慎重に。先ほどの「偶然」を、警戒しながら。
ワタシは、男の動きを、つぶさに、観察した。鑑定が、相手の筋肉のこわばりや、重心の移動を、おぼろげに、伝えてくる。次に、どこへ、踏み込むか。どの角度で、斬ってくるか。——読める。手に取るように。
(——きみの太刀筋は、もう、見えてる)
男が、踏み込む。
ワタシは、その動きに、合わせて、また、ほんの小さな仕掛けを、放った。今度は、男の手元。剣の柄に、わずかな水気を、まとわせる。指先が、滑る。
「——ちっ!」
剣が、わずかに、握りを失い、軌道が、ぶれる。ワタシは、その隙に、子どもたちを背に庇いながら、じりじりと、納屋の出口へ、後退した。
男から見れば。
斬ろうとするたびに、足を滑らせ、剣が滑り、なぜか、ガキ一人、仕留められない。——ただ、間の悪い、不運な男。それが、傍目には、すべてだった。
(——もう少し。もう少しだけ、保たせれば)
ワタシは、賭けていた。
セバスに、領兵への手配を、頼んでおいた。あの、抜かりのない執事が、動いている。きっと、間に合う。——いや、間に合わせてくれる。
「このっ、ちょこまかと——!」
しびれを切らした男が、剣を捨て、素手で、ワタシに掴みかかった、その、瞬間。
「——そこまでだ! 神妙にしろ!」
廃村の、静寂を破って。
幾人もの、足音と、怒号が、なだれ込んできた。
武装した、領兵たち。その先頭に——息を切らした、セバスの姿。
(——来た!)
「全員、確保しろ! 一人も、逃すな!」
領兵が、一斉に、納屋へ、踏み込む。不意を突かれた闇商人たちは、抵抗する間もなく、次々と、取り押さえられていった。
頭の男も、複数の兵に、組み伏せられ——最後まで、苦々しげに、ワタシを、睨んでいた。
「……ガキ。てめえ、ただ者じゃ——」
「ただの、運のいい子どもだよ」
ワタシは、にっこりと、笑って、答えた。
男は、それ以上、何も言えないまま、引き立てられていった。
(——正体は、守れた)
ワタシは、こっそり、息を、吐いた。全力は、一度も、出さなかった。「不運な男」と「運のいい子ども」。傍から見れば、ただ、それだけの出来事。
誰も、ワタシの本当の力には、気づかなかった。
*
「坊っちゃま!」
駆け寄ってきたセバスが、ワタシの無事を確かめて、心底、ほっとした顔を、した。
「ご無事で……ああ、本当に。間に合って、何よりでございました」
「ありがとう、セバス。——君が、いなかったら、危なかった」
本当に、そうだった。
ワタシ一人では、あの大勢の闇商人を、正体を隠したまま、取り押さえることなど、できなかった。領兵を動かす段取りも、人脈も、ワタシには、ない。
セバスが、いてくれたから。ワタシは、力を隠したまま、子どもたちを、守りきれた。
(——一人じゃ、何も、できない)
以前なら、それを、無力感として、感じていた。でも、今は、違う。
(——一人じゃ、できない。でも、仲間が、いれば、できる)
それは、悔しさではなく——心強さ、だった。
*
縛られていた子どもたちは、全員、無事に、保護された。
ティナは、母親の胸に、飛び込んで、わんわんと、泣いた。その手には、しっかりと、あの木彫りの兎が、握られていた。
母親は、何度も、何度も、ワタシに、頭を下げた。
「ありがとう、ございます……! 坊っちゃまが、いなければ、うちの子は……!」
「いえ。——無事で、本当に、よかったです」
ワタシは、そう言って、笑った。
たくさんの、感謝の言葉。けれど、ワタシは、知っている。今日のことは、すぐに、忘れられる。「辺境伯家の三男が、たまたま、人攫いを見つけて、領兵が、捕まえた」。記録には、そう、残るだけ。ワタシの、本当の働きは、誰の、記憶にも、残らない。
それで、いい。
それが、ワタシの、選んだ、戦い方なのだから。
*
けれど——その夜。
鍛冶場跡地の『アステリアの灯』で、報告を聞いたニコが、難しい顔を、して、言った。
「ルキの旦那。——喜んでばかりも、いられねえぜ」
「……どういうこと?」
「捕まえたのは、闇商人の、末端だ。あの頭らしき男も、所詮は、現場の駒。——たぶん、本当の元締めは、まだ、どこか別にいる」
ニコの声は、低かった。
「まあ、今日のところは、勝ちさ。ティナも、みんなも、無事だった。それは、間違いねえ。——ただ、あんまり、浮かれすぎねえ方が、いいかもな。こういう連中は、案外、根が深い。頭の、隅にでも、留めておくくらいで、ちょうどいい」
鍛冶場跡地のランプが、ゆらりと、揺れた。
今日、ワタシは、ティナを、救えた。それは、間違いなく、よかった。
でも——ニコの言う通り。ワタシたちが、今日、触れたものの、奥には。まだ、見えない、何かが、あるのかもしれない。
(——今は、まだ、わからない。けど)
ワタシは、静かに、こぶしを、握った。
浮かれず、油断せず。一歩ずつ。——それが、ワタシたちの、進み方だ。




