幕間 老いた執事の見たもの セバスチャン視点
私、セバスチャン・ハルトは、長く生きすぎたのかもしれない。
六十と六つ。貴族の家に仕えて、五十年あまり。若い見習いの頃から、いくつもの家を渡り歩き、このアーデルハイト家に落ち着いてからは、二十数年。二代の当主に仕え、数えきれぬほどの人の生き死にを見てきた。喜びも、悲しみも、裏切りも、忠義も。たいていのことには、もう驚かなくなった。——そう思っていた。
あの坊っちゃまに、お会いするまでは。
*
ルキウスさまがお生まれになった日のことを、私はよく覚えている。
三人目の、男のお子。家督からは遠い三男坊。正直に申せば——失礼ながら、当時の私は、さして気に留めてはいなかった。お健やかにお育ちになればよい。その程度に思っていた。
異変に気づいたのは、坊っちゃまが五つになられた頃だ。
魔法に出会われた坊っちゃまは、人が変わったように研鑽を始められた。——いや。「人が変わった」というのは、正しくない。今にして思えば、あれはもともとそういうお方が、ようやく本領を現し始めたというだけのこと。
五歳の幼子が、夜ごと一人、灯りも乏しい部屋で、魔力の制御に没頭する。来る日も来る日も。指先が腫れ上がっても、なお。
私は家令として、屋敷のすべてを把握している。坊っちゃまの夜更かしも、当然存じていた。——だが最初は、子どもの一時の熱中だろうと、高をくくっていた。
甘かった。
その「一時の熱中」は、半年経っても、一年経っても、衰えるどころか深まる一方だった。家庭教師の魔導士が、次々と音を上げた。「私にはもう、教えることがございません」と。中には坊っちゃまを畏れるように見る者すら、いた。
(——これは、ただ事ではない)
私がそう確信したのは、ある夜のことだ。
私はたまたま、坊っちゃまの訓練を、物陰から見てしまった。
幼い坊っちゃまは、指先に魔力を灯し——その光を髪の毛ほどの細さに絞り、糸のように操り、宙に緻密な文様を描いてみせた。
私は魔法の専門家ではない。だが五十年、貴族に仕えてきた。一流の魔導士の業も、幾度も目にしてきた。
だからこそ、わかった。
あれは——大の大人の宮廷魔導士でも、容易にはできぬ業だ。それを、十にも満たぬ子どもが、こともなげにやってのけている。
(——なんという、お方だ)
背筋が寒くなった。
そして同時に——もう一つ、気づいたことがあった。
坊っちゃまは、その途方もない力を、誰にも見せようとはなさらない。
*
人前での坊っちゃまは、いつも「ちょっと出来のいい、平凡な三男坊」を演じておられた。
魔法の腕を問われれば、「うーん、よくわかんないですけど」と首をかしげる。父君が自慢なさろうとすると、わざと失敗してみせる。鑑定の儀でさえ——後で知ったことだが——ご自分の力を絞って、「平凡な数値」を出しておられたという。
最初、私はその理由がわからなかった。
これほどの才。誇ればよいではないか。称賛され、引き立てられ、栄達の道はいくらでも開けように。なぜ隠す。なぜわざわざ、自らを低く見せる。
その答えを私が知ったのは——ずっと後。坊っちゃまがあの銀髪の娘を買い、その首の隷紋を解いた、あの夜のことだ。
ああ、と。私はようやく得心した。
坊っちゃまは、力を誇るために磨いておられたのではない。
奪われた者の鎖を解くために。世に知られず、ひっそりと誰かを救うために。——そのために力を蓄え、そして、その力を隠しておられたのだ。
目立てば、自由に動けなくなる。注目されれば、こっそりとは救えない。だから隠す。己の栄達も、誇りも、すべて投げ捨てて。
たった十二の子どもが。
(——なんという、お方だ)
私はもう一度、同じ言葉を心の中で繰り返した。
今度は、畏れではなかった。
*
私には、悔いがあった。五十年、忘れられぬ悔いが。
力なき若き日の私は、妹のように慕ってくれた流れの娘一人すら、守れなかった。あの子が奴隷商人に連れられていく、その背を、ただ見送ることしかできなかった。
以来、私は思い知っていた。
——優しさだけでは、人は救えぬ。優しさには、力がいる。知恵がいる。立場がいる。それらの伴わぬ優しさなど、無力な自己満足に過ぎぬのだ、と。
だから私は、諦めて生きてきた。立派な家に仕え、忠実に勤め、悔いを胸の奥にしまい込んで。静かに老いていくのだと。
——だが。
坊っちゃまは、違った。
あのお方は、力を持っていた。途方もない力を。そして、その力を——己のためではなく、名もなき誰かを救うために使おうとしておられた。
私が五十年前に持ち得なかったすべてを、あのお方は持っている。そして——私が果たせなかったあの約束を、あのお方なら、本当に果たせるかもしれない。
その夜。私は六十六の老体で、十二の坊っちゃまの前に、片膝をついた。
みっともない、と笑わば笑え。
私はこのしなびた命の残りのすべてを、あのお方の行く道に捧げると決めたのだ。
あの日守れなかった、あの子の最後の笑顔に。——少しでも報いるために。
*
打ち捨てられた鍛冶場を改めた、あの部屋に。今、小さな灯りがともっている。
『アステリアの灯』。坊っちゃまが名づけられた。
その灯りの下に、解放された銀髪の娘がいて、抜け目のない商売人の子がいて——そして、その中心に、平凡な三男坊の顔をした、途方もないお方がいる。
まだ四人。古い鍛冶場の片隅の、小さな灯り。
他の誰も知らない。父君も、母君も、ヴィル様も。この灯りの本当の意味を。坊っちゃまの本当のお姿を。
知っているのは——世界で、ただ数人。
(——いや)
私は灯りに照らされた坊っちゃまの横顔を見て、思う。
いつか。いつかこの小さな灯りが、誰の目にも隠しきれぬほど、大きく燃え上がる日が——来るのかもしれぬ。
その日をこの目で見届けるまでは、まだ死ぬわけにはいかぬな。
私は柄にもなく、そんなことを思って——一人、口元をゆるめた。




