第14話 アステリアの灯
フィーを、屋敷のメイドとして、迎え入れる。
台帳の処理は、セバスが見事に片づけてくれた。例の融通の利く隷紋官の手で、フィーは書類の上で一度「病死」し——アーデルハイト家が新たに雇った使用人として、記録され直した。奴隷の身分は、そのまま。けれど、この家では、給金と休みを与え、一人の人間として扱う。
母とセリアには、ワタシからこう説明した。
「あの子があんまり不憫で。——だから、奴隷の身分から買い上げました。身分は奴隷のままだけど、これからは、ちゃんとした給金と休みを与えて、普通のメイドと同じように、一人の人間として、置いてあげたくて」
母はそれを聞いて、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ! ルキ、あなた、なんて優しい子なの! ええ、もちろんよ! フィーちゃんは、もう、うちの大事な子ですもの!」
セリアも「やったわね、フィー!」と手を叩いて喜んだ。
——心優しい母たちは、「奴隷を人並みに扱う」というワタシの行いを、ただまっすぐに喜んでくれた。フィーの首元に巻かれたスカーフを、不思議がる者もいない。まさか、その下の隷紋が消えているなどとは——夢にも思わない。この世界では、隷紋は誰にも消せないのが、常識なのだから。
(——よかった)
ワタシは、ほっと胸をなで下ろした。
でも——一人だけ。この説明で、簡単には流してくれない人がいることを、ワタシはわかっていた。
*
「——奴隷を、買い上げて、メイドにした、だと?」
その夜。ワタシは覚悟を決めて、長兄ヴィルヘルムの執務室を訪ねた。
領都の務めから戻ったヴィル兄さんは、書類から顔を上げ、ワタシを静かに見据えた。
「ルキ。お前はまだ十二だ。奴隷を一人買い上げるには、相応の金がいる。手続きもいる。お前一人でできることではない。——誰が、手を貸した?」
(——っ、鋭い)
やっぱり、ヴィル兄さんはごまかせない。母たちのようには、いかなかった。
ワタシは、用意してきた答えを口にした。半分は、本当のことを。
「……セバスに、手伝ってもらいました。お金は、ワタシがずっと貯めてたお小遣いで。足りない分は——その、いつか働いて返すって、約束で」
「セバスが」
「うん。——叱るなら、ワタシを叱ってください。セバスは、ワタシが無理を言って、付き合わせただけだから」
ヴィルはしばらく黙って、ワタシを見ていた。
そのまなざしが——痛い。何もかも見透かされている気がして。
でも、ワタシは目を逸らさなかった。
ここで目を逸らしたら、この兄はもっと深く疑う。だからせめて、「フィーを救いたかった」という気持ちだけは——本物をぶつけよう、と思った。
「……兄さん。ワタシは、あの子を放っておけなかった。それだけなんです。家のことも、立場も考えてないって言われたら、その通りです。でも——」
ワタシは、ぐっとこぶしを握った。
「目の前で、あんなに痩せて、心までなくしてしまった子を。見て見ぬふりは、できなかった。——それがいけないことなら。ワタシは、いけない子です」
長い沈黙があった。
やがてヴィルは、ふう、と深いため息をついた。
「……お前は」
その声は、怒ってはいなかった。むしろ、どこか困ったような響きだった。
「昔からそうだ。一度こうと決めたら、梃子でも動かん。——父上に似たのか、母上に似たのか」
ヴィルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月明かりが、その生真面目な横顔を照らす。
「いいか、ルキ。私は、お前のその優しさを否定はしない。——むしろ、眩しいとすら思う」
(——兄さん)
「だが、私は長男だ。家を守らねばならん。だから——釘を刺しておく」
ヴィルは振り返り、ワタシをまっすぐ見た。
「メイドを一人雇う。その程度なら目をつむろう。だが——もしお前が、これ以上、家を危うくするような大きなことに手を出すなら。その時は長兄として止める。容赦はしない。——わかったな?」
「……はい」
ワタシは頷いた。
(——ごめん、兄さん)
心の中で、もう一度謝った。
ワタシは、もう止まれない。これ以上の大きなことに——もう、手を出してしまっている。フィーだけじゃない。ニコも。これから増えていく、仲間たちも。
でも、それを今この兄に言うことは、できなかった。
(——いつか。いつか、ちゃんと話せる日が来るだろうか)
わからない。
でもその日まで、ワタシはこの優しくて不器用な兄に、嘘をつき続けることになる。
それは——思っていたより、ずっと重いことだった。
*
ヴィルとの話を終えて、ワタシはその足で、領都の外れへと向かった。
打ち捨てられた、古い鍛冶場。
ここを見つけてきたのは、セバスだった。
「この鍛冶場は、もう長らく、使われておりませぬ。持ち主も、とうに、いなくなった土地。今は誰も、近づきません。——人目を忍ぶには、おあつらえ向きかと」
なるほど、とワタシは思った。
屋敷の中に仲間を匿うより、ずっと賢い。家族の目の届く場所では、いつか、ぼろが出る。だが、街外れの、忘れられた廃屋なら——最初から、誰の目にも入らない。
ワタシたちは数日かけて、こっそりと、その鍛冶場を整えた。埃を払い、灯りを入れ、机と椅子を運び込む。資料をしまう棚を設え、ニコのような解放した仲間が身を寄せられる寝床も用意した。
そうしてできあがった部屋に、今、ささやかなランプの灯りがともっている。
ワタシとセバス、フィーとニコ。四人の顔を、そのオレンジ色の光が、やわらかく照らしていた。
「——なあ、ルキの旦那」
ニコが椅子にふんぞり返って言った。すっかり馴染んでいる。
「ここ、これから、おれたちの根城になるんだろ? なら、名前がいるんじゃねえか? 秘密のアジトには、かっこいい名前がつきもんだぜ」
「名前か……」
ワタシは腕を組んで考えた。
ここは、ワタシたちの出発点。鎖を解かれた者が、初めて息をつける場所。忘れられた廃屋の片隅にありながら——小さな灯りのともる場所。
ふと、ワタシは夜空の星を思い出した。いつも見守ってくれている、あの女神を。
「——『アステリアの灯』」
ワタシは言った。
「どうかな。慈愛の女神、アステリア。その名の灯りがともる場所。ここから一つずつ、暗闇を照らしていく。——そういう意味で」
ニコが、にっと笑った。
「——いいじゃねえか。気に入ったよ」
セバスが目を細めて頷く。
そして——フィーが、ぽつりと呟いた。
「……あかり」
その薄紫の瞳が、ランプの灯りを映して、ゆらりと光った。
「……あったかくて、いい、ことば、ですね。ルキ、さま」
それは、フィーが初めて。命じられたからでもなく、自分からワタシに口にした——「感想」だった。
(——ああ)
ワタシは、その小さな灯りに照らされた三人の顔を、見回した。
まだ四人。古い鍛冶場の片隅の、小さな灯り。
でも、この灯りは。
きっと、消えない。
ワタシはそう確信して——静かに、こぶしを握った。




