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第14話 アステリアの灯

 フィーを、屋敷のメイドとして、迎え入れる。


 台帳の処理は、セバスが見事に片づけてくれた。例の融通の利く隷紋官の手で、フィーは書類の上で一度「病死」し——アーデルハイト家が新たに雇った使用人として、記録され直した。奴隷の身分は、そのまま。けれど、この家では、給金と休みを与え、一人の人間として扱う。


 母とセリアには、ワタシからこう説明した。


「あの子があんまり不憫で。——だから、奴隷の身分から買い上げました。身分は奴隷のままだけど、これからは、ちゃんとした給金と休みを与えて、普通のメイドと同じように、一人の人間として、置いてあげたくて」


 母はそれを聞いて、ぱっと顔を輝かせた。


「まあ! ルキ、あなた、なんて優しい子なの! ええ、もちろんよ! フィーちゃんは、もう、うちの大事な子ですもの!」


 セリアも「やったわね、フィー!」と手を叩いて喜んだ。


 ——心優しい母たちは、「奴隷を人並みに扱う」というワタシの行いを、ただまっすぐに喜んでくれた。フィーの首元に巻かれたスカーフを、不思議がる者もいない。まさか、その下の隷紋が消えているなどとは——夢にも思わない。この世界では、隷紋は誰にも消せないのが、常識なのだから。


(——よかった)


 ワタシは、ほっと胸をなで下ろした。


 でも——一人だけ。この説明で、簡単には流してくれない人がいることを、ワタシはわかっていた。



「——奴隷を、買い上げて、メイドにした、だと?」


 その夜。ワタシは覚悟を決めて、長兄ヴィルヘルムの執務室を訪ねた。


 領都の務めから戻ったヴィル兄さんは、書類から顔を上げ、ワタシを静かに見据えた。


「ルキ。お前はまだ十二だ。奴隷を一人買い上げるには、相応の金がいる。手続きもいる。お前一人でできることではない。——誰が、手を貸した?」


(——っ、鋭い)


 やっぱり、ヴィル兄さんはごまかせない。母たちのようには、いかなかった。


 ワタシは、用意してきた答えを口にした。半分は、本当のことを。


「……セバスに、手伝ってもらいました。お金は、ワタシがずっと貯めてたお小遣いで。足りない分は——その、いつか働いて返すって、約束で」


「セバスが」


「うん。——叱るなら、ワタシを叱ってください。セバスは、ワタシが無理を言って、付き合わせただけだから」


 ヴィルはしばらく黙って、ワタシを見ていた。


 そのまなざしが——痛い。何もかも見透かされている気がして。


 でも、ワタシは目を逸らさなかった。


 ここで目を逸らしたら、この兄はもっと深く疑う。だからせめて、「フィーを救いたかった」という気持ちだけは——本物をぶつけよう、と思った。


「……兄さん。ワタシは、あの子を放っておけなかった。それだけなんです。家のことも、立場も考えてないって言われたら、その通りです。でも——」


 ワタシは、ぐっとこぶしを握った。


「目の前で、あんなに痩せて、心までなくしてしまった子を。見て見ぬふりは、できなかった。——それがいけないことなら。ワタシは、いけない子です」


 長い沈黙があった。


 やがてヴィルは、ふう、と深いため息をついた。


「……お前は」


 その声は、怒ってはいなかった。むしろ、どこか困ったような響きだった。


「昔からそうだ。一度こうと決めたら、梃子でも動かん。——父上に似たのか、母上に似たのか」


 ヴィルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月明かりが、その生真面目な横顔を照らす。


「いいか、ルキ。私は、お前のその優しさを否定はしない。——むしろ、眩しいとすら思う」


(——兄さん)


「だが、私は長男だ。家を守らねばならん。だから——釘を刺しておく」


 ヴィルは振り返り、ワタシをまっすぐ見た。


「メイドを一人雇う。その程度なら目をつむろう。だが——もしお前が、これ以上、家を危うくするような大きなことに手を出すなら。その時は長兄として止める。容赦はしない。——わかったな?」


「……はい」


 ワタシは頷いた。


(——ごめん、兄さん)


 心の中で、もう一度謝った。


 ワタシは、もう止まれない。これ以上の大きなことに——もう、手を出してしまっている。フィーだけじゃない。ニコも。これから増えていく、仲間たちも。


 でも、それを今この兄に言うことは、できなかった。


(——いつか。いつか、ちゃんと話せる日が来るだろうか)


 わからない。


 でもその日まで、ワタシはこの優しくて不器用な兄に、嘘をつき続けることになる。


 それは——思っていたより、ずっと重いことだった。



 ヴィルとの話を終えて、ワタシはその足で、領都の外れへと向かった。


 打ち捨てられた、古い鍛冶場。


 ここを見つけてきたのは、セバスだった。


「この鍛冶場は、もう長らく、使われておりませぬ。持ち主も、とうに、いなくなった土地。今は誰も、近づきません。——人目を忍ぶには、おあつらえ向きかと」


 なるほど、とワタシは思った。


 屋敷の中に仲間を匿うより、ずっと賢い。家族の目の届く場所では、いつか、ぼろが出る。だが、街外れの、忘れられた廃屋なら——最初から、誰の目にも入らない。


 ワタシたちは数日かけて、こっそりと、その鍛冶場を整えた。埃を払い、灯りを入れ、机と椅子を運び込む。資料をしまう棚を設え、ニコのような解放した仲間が身を寄せられる寝床も用意した。


 そうしてできあがった部屋に、今、ささやかなランプの灯りがともっている。


 ワタシとセバス、フィーとニコ。四人の顔を、そのオレンジ色の光が、やわらかく照らしていた。


「——なあ、ルキの旦那」


 ニコが椅子にふんぞり返って言った。すっかり馴染んでいる。


「ここ、これから、おれたちの根城になるんだろ? なら、名前がいるんじゃねえか? 秘密のアジトには、かっこいい名前がつきもんだぜ」


「名前か……」


 ワタシは腕を組んで考えた。


 ここは、ワタシたちの出発点。鎖を解かれた者が、初めて息をつける場所。忘れられた廃屋の片隅にありながら——小さな灯りのともる場所。


 ふと、ワタシは夜空の星を思い出した。いつも見守ってくれている、あの女神を。


「——『アステリアのあかり』」


 ワタシは言った。


「どうかな。慈愛の女神、アステリア。その名の灯りがともる場所。ここから一つずつ、暗闇を照らしていく。——そういう意味で」


 ニコが、にっと笑った。


「——いいじゃねえか。気に入ったよ」


 セバスが目を細めて頷く。


 そして——フィーが、ぽつりと呟いた。


「……あかり」


 その薄紫の瞳が、ランプの灯りを映して、ゆらりと光った。


「……あったかくて、いい、ことば、ですね。ルキ、さま」


 それは、フィーが初めて。命じられたからでもなく、自分からワタシに口にした——「感想」だった。


(——ああ)


 ワタシは、その小さな灯りに照らされた三人の顔を、見回した。


 まだ四人。古い鍛冶場の片隅の、小さな灯り。


 でも、この灯りは。


 きっと、消えない。


 ワタシはそう確信して——静かに、こぶしを握った。


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