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第120話 言葉にならない、距離

 賑やかな宴の喧騒から、少しだけ離れたくなって。ワタシは、商会の裏手にある、小さな中庭へと出た。


 火照った頬に、夜風が心地よい。


 見上げれば——澄んだ夜空に、月がかかっていた。


(——いろいろ、あったな)


 ワタシは、ふう、と息を吐いた。


 投獄され、力を解き放ち、剣聖と戦い、王を救った。怒涛のような日々。それが、ようやく一区切りついたのだ。


 その時。背後で、そっと扉の開く音がした。


*


「……ここに、いたのですね」


 振り返ると——そこに、クラリスティアが立っていた。


 月明かりに照らされた、その姿は。宴の温かな灯りの中とは、また違う——凛とした美しさをまとっていた。


「クラリスティア。——宴は、いいの?」


「ええ。少し……夜風に、当たりたくて」


 彼女はそう言って、ワタシの隣に並んだ。


 二人の間に——少しの沈黙が落ちる。


 なぜだろう。彼女と二人きりになると、いつもより言葉が出てこない。


*


 ワタシは、なんとなく夜空を見上げた。クラリスティアも、同じように月を見ている。


 その横顔を、ちらりと盗み見る。


 白い頬。長い睫毛。月光に浮かぶ、その姿は——どきりとするほど、綺麗だった。


(——いや。何を考えているんだ、ワタシは)


 ワタシは、慌てて視線を月へと戻した。


 なんだか落ち着かない。胸の奥が、妙にくすぐったい。


 こんな気持ちは——初めてだった。


*


「……あの、ね。ルキウス」


 先に口を開いたのは、クラリスティアだった。


「あの王宮で。——あなたが、わたくしを助けてくれたこと。まだ、ちゃんとお礼を言えていませんでした」


 彼女の声は、いつもの凛とした響きとは少し違って——どこか柔らかく、揺れていた。


「あの時。剣聖の刃が迫って、もう、だめだと思った、その瞬間。あなたが来てくれた。わたくしを——抱きとめて、くれた」


 クラリスティアの頬が——月明かりの下でも、わかるほど、ほんのりと染まっている。


*


「あれは——その。無我夢中で」


 ワタシも、なんだか気恥ずかしくなって頬をかいた。


「間に合って、本当によかった。——あなたを、失わずに済んで」


 その言葉に、クラリスティアが、はっとワタシを見た。


 二人の視線が——絡む。


 月明かりの中、互いの瞳を見つめ合ったまま——時が止まったように、感じた。


 彼女の瞳の奥に、何か——言葉にならない想いが、揺れている気がした。


 そして、それはきっと——ワタシの瞳にも。


*


 ——ドッ、と。宴の方から、ひときわ大きな笑い声が響いた。


 その音に、二人とも、はっと我に返る。


「……っ。す、すみません。わたくし、つい」


 クラリスティアが、慌てて目を伏せた。耳まで赤くなっている。


「いや。——こちらこそ」


 ワタシも、どぎまぎしながら視線を逸らした。


 なんだ、今の。心臓が——やけに、速い。


 もう少しで、何か言ってしまいそうだった。でも——それが何なのか。ワタシ自身、まだ、うまく掴めていない。


*


 ワタシたちは、しばらく、無言で——月を見上げていた。


 気まずいわけではない。むしろ——この沈黙が、不思議と心地よかった。


 言葉になんて、しなくても。隣にいるだけで、伝わるものが、確かにある。


 今は——それで、十分だった。


(——いつか。この気持ちに、ちゃんと向き合える日が、来るのかな)


 ワタシは、そっと、そう思った。


 だが、今は——まだ。この、甘くくすぐったい距離のままで。もう少しだけ、いさせてほしかった。


*


 やがて。中庭に、もう一つ、足音が近づいてきた。


「——ここにいたか、ルキウス」


 アルベルトだった。クラリスティアが、ぴくりと肩を揺らし——「で、では、わたくしはこれで」と、そそくさと宴へ戻っていく。


 その後ろ姿を見送って、アルベルトが、ふっ、と笑った。


「邪魔を、してしまったかな」


「い、いえ。——別に、そんなことは」


 ワタシが、しどろもどろになると。アルベルトは、愉快そうに、肩をすくめた。


*


「……お前に、礼を言いたくて、な」


 アルベルトが、静かに切り出した。


「お前は、敵だったこの私を——斬らずに、救ってくれた。それどころか、妹のことまで気にかけてくれている」


「当然のことです」


 ワタシは、頷いた。


「アルベルトさんは、もう敵じゃない。——仲間です。それに、妹さんのことは約束しましたから。必ずお助けします」


 アルベルトの目が——わずかに、潤んだ。


*


「妹は——今も、あの薬を飲み続けている。私がいなくなれば、あの子がどうなるか。それだけが——気がかりだ」


 アルベルトの声に、苦渋が滲む。


「大丈夫です」


 ワタシは、力強く言った。


「大神官を追い詰めれば、妹さんを縛るものも断ち切れる。それに——ワタシの鑑定の力で、あの薬の正体も必ず見抜いてみせます。妹さんは——ワタシたちが、絶対に救います」


「……恩に、着る」


 アルベルトが、深々と頭を下げた。


 かつて、この国最強と謳われた剣士が。今は——一人の兄として、妹を想い頭を垂れている。


*


「さあ。——戻りましょう、アルベルトさん」


 ワタシは、彼の肩を叩いた。


「せっかくの宴です。今夜は、難しいことは忘れて楽しみましょう」


「……そうだな」


 アルベルトが、ふっと表情を緩めた。


 ワタシたちは、肩を並べて、宴の灯りの方へと戻っていく。


 背後では——月が、静かに。ワタシたちを、見守っていた。


 怒涛の日々の合間の、束の間の安らぎ。甘く、くすぐったい距離。そして、新たな絆。


 その、すべてを——胸に抱きしめながら。ワタシは、賑やかな灯りの中へと、足を踏み入れた。

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