第118話 もぬけの殻
わたし——オルブライト侯爵家当主、エドガー・オルブライトは。夜明けとともに、衛兵の一隊を率いて、大神官の屋敷へと向かっていた。
陛下より直々に、大神官ベルゲン捕縛の命を賜った。王命を騙り、陛下を幽閉した、大逆の罪。それを問うための、正式な踏み込みである。
長く陰ながら、ルキウス殿を支え、あの大神官の専横に歯噛みしてきた、わたしにとって。これは——待ち望んだ瞬間でも、あった。
*
大神官の屋敷は、神殿に隣接する、壮麗な館だった。
白亜の壁。荘厳な装飾。長きにわたり、この国の真の権力を握ってきた者の住まいに、ふさわしい。
だが、その壮麗さも、今や——むなしく見えた。
「開門せよ! ——陛下の、王命である!」
衛兵隊長が、声を張り上げる。だが——応える者は、いない。
門は固く閉ざされ、屋敷からは——物音一つ、しなかった。
わたしは——かすかな胸騒ぎを、覚えた。
*
「——構わぬ。押し入れ」
わたしの命令で、衛兵たちが門を破り、屋敷へとなだれ込む。わたしも、後に続いた。
広い玄関広間。豪奢な調度。だが——そこには、人の気配が、まるでなかった。
「侯爵様。——誰も、おりません」
屋敷を検めて回った衛兵が、戻ってきて報告する。
「使用人の姿も、ありません。まるで——一夜にして、もぬけの殻になったかのようで」
わたしは——奥歯を、噛んだ。
やはり、か。——いや、こうなることを、どこか予感しては、いた。
*
わたしは、屋敷の奥へと進んだ。
大神官の執務室と思しき部屋。重厚な扉を開けると——そこには、慌ただしく立ち去った痕跡が、残されていた。
引き出しは、すべて開け放たれ。書棚の書物も、半ば抜き取られている。床には、燃やし損ねた書類の燃えかすが——散らばっていた。
わたしは、その燃えかすを拾い上げ——目を細めた。
(——重要なものは、すべて持ち去ったか。あるいは——焼いたか)
証拠を残さぬ、徹底ぶり。さすがは——長きにわたり、この国の闇を生き抜いてきた男だ。形勢が傾くや——一切の未練を捨て、姿を消した。
*
わたしは、執務室をゆっくりと見回した。
壁には、女神アステリアを描いた、大きな聖画が掛かっている。荘厳で——どこか冷たい、絵だ。
(——逃げ足の、速いことだ)
わたしは、内心で舌打ちした。
あと一歩。あの男の首根っこを——掴めると思っていた。だが、ベルゲンは。その一歩手前で——するりと、手の中から抜け落ちた。
長年、この国を操ってきただけのことは、ある。引き際の見極めも——一流、というわけだ。
だが——。
*
わたしの胸に引っかかるのは。逃げられたこと、そのものよりも——。
あのベルゲンが、ただ、おめおめと尻尾を巻いて逃げただけ、なのか、という——疑念だった。
わたしの知る、大神官ベルゲンは。そのような生易しい男では、ない。
長きにわたり、誰にも玉座を渡さず、この国を裏から支配し続けた、執念の化身。その男が——己の築いたすべてを奪われて。ただ黙って消える、だろうか。
(——いや。あの男は——必ず、何かを企んでいる)
逃げたのでは、ない。退いたのだ。——次の、一手のために。
*
「侯爵様。——いかが、いたしましょう」
衛兵隊長の問いに、わたしは、思考から引き戻された。
「……屋敷を、封鎖せよ。残された書類や痕跡を、すべて検めるのだ。ベルゲンの行き先の手がかりが、あるやもしれぬ」
「はっ」
「それと——」
わたしは、声を低くした。
「神殿にも、内通者が潜んでいる恐れが、ある。ベルゲンに与する者の動きを——厳重に、見張れ。あの男が次に何を仕掛けてくるか——わかったもの、ではない」
衛兵たちが、慌ただしく動き出す。
*
一人、執務室に残されたわたしは、窓の外を——見つめた。
朝日が、神殿の尖塔を照らしている。荘厳で、美しい——けれど、その内側に、どれほどの闇を孕んできたか。
ルキウス殿は、言っていたという。「この国を縛る、見えない鎖を断ち切る」と。
その鎖の本体たる大神官は——今、闇へと姿を消した。
断ち切るどころか——獣は、野に放たれたのだ。手負いの獣ほど、恐ろしいものは、ない。
(——ルキウス殿。あなたの戦いは。まだ——終わっておらぬ、ようだ)
わたしは、娘が心を寄せた、あの若者の顔を思い浮かべながら、静かに拳を握りしめた。
束の間の勝利の裏で。新たな嵐の予感が——確かに、近づいていた。




