第117話 偽りが晴れる
余——この国の王は。久方ぶりに、玉座へと、戻ってきた。
離宮の奥、薄暗い一室に押し込められていた、あの日々。もう二度とここへは戻れぬかと——半ば、諦めてもいた。
だが、余は今こうして玉座にある。あの若者が、ルキウスが迎えに来てくれたおかげで。
やつれた体は、まだ重い。だが胸の内には、長く忘れていた熱があった。
*
「グレイ」
余は、傍らに控える、老侍従を呼んだ。
幼い頃から、ただ一人だけ余の本心を知る忠臣。この男だけは、いかなるときも余を裏切らなかった。
「はっ。——ここに」
「触れを出せ。——王都中に、余の言葉として、布告するのだ」
余は、声に力を込めた。やつれてなお、王としての威厳を込めて。
「先に出された、ルキウス・フォン・アーデルハイト捕縛の王命は偽りである、と。あれは大神官ベルゲンが、余を幽閉し、余の名を騙って出したもの。——ルキウスに罪はない、彼は無実である。これを、隅々まで知らしめよ」
*
グレイの目に、涙が滲んだ。
「……かしこまり、ました。陛下がご自身のお言葉で、民に布告なさる。——このグレイ、長くお仕えしてまいりましたが、今日ほど誇らしい日は——ございませぬ」
老侍従の言葉に、余は——静かに、頷いた。
千年、この玉座は傀儡の席であった。歴代の王は皆、大神官の操り人形。余もまた、そうであった。
だが、もう違う。
余は今、自らの意思で、自らの言葉で——命を下している。それが、どれほど重く。どれほど——自由なことか。
「急ぎ、広めよ。一刻も早く、民の不安を、取り除くのだ」
「はっ。——ただちに!」
グレイが深く一礼し、駆けてゆく。
余は玉座から、王都の空を見上げた。その目に、もう諦めの色はなかった。
*
——ワタシ、ルキウスは。
久しぶりに、家族と、ゆっくり顔を合わせていた。
無実が布告され、追われる身でなくなった、その日の夕刻。ワタシは、家族の待つ宿へと向かった。
扉を開けた、その瞬間。
「ルキ——っ!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、姉さんだった。セリア姉さんが、ワタシに勢いよく抱きついてくる。
「無事で……無事で、よかったぁ……っ」
姉さんは、ぼろぼろと、涙をこぼしていた。
*
「心配、かけました。——ただいま、戻りました」
ワタシがそう言うと、母さんも、目に涙を浮かべて近づいてきた。
「おかえりなさい、ルキ。——よく、無事で。あなたが捕まったと聞いたときは、生きた心地もしませんでした」
「母さん……。ごめんなさい、心配ばかり、かけて」
母さんは、ワタシの頬にそっと手を添えた。その手の温もりに——張り詰めていたものが、少しだけほどけていく。
そして、奥に腕を組んで立つ、父さんの姿があった。
*
「父上」
ワタシが声をかけると、父さんは——ぐっと眉を寄せ、それから太い腕で、ワタシの肩を力強く掴んだ。
「……無事で、何よりだ。ルキ」
ぶっきらぼうな、声。だが、その目は——わずかに、潤んでいた。
「お前は——わしの誇りだ。罪を着せられてなお、誇りを失わず立っていた。そして——こんなにも多くの者に慕われ、助けられた。それは、お前が誠実に生きてきた証だ」
「……父上」
かつて、ワタシの生き方を「家門の名に泥を塗った」と叱った父さん。その人が今、心からワタシを認め、誇りに思ってくれている。
ワタシは——込み上げるものを、堪えた。
*
「兄さんは——大丈夫ですか」
ワタシが尋ねると、レオ兄が寝台から体を起こした。脇腹に、包帯を巻いている。
「この程度、かすり傷だ。——心配、いらねえよ」
強がる兄さんに、ワタシは苦笑した。
「無茶をして。——剣聖に立ち向かったって、聞きました。ありがとう、兄さん。みんなを守ってくれて」
「……けっ。当たり前だろ」
レオ兄は、ぷいと顔を背けた。だが、その耳が——少し、赤い。
「お前は、俺の自慢の弟だからな。——お前のためなら、いくらでも体を張るさ」
ぶっきらぼうな、その言葉に。ワタシの胸は、温かくなった。
*
家族との再会を終え、ワタシは商会へと戻った。
扉をくぐると——待っていた仲間たちが、一斉に顔を上げた。
「だんな……!」
「ルキの旦那! 無事だったんだな!」
ニコをはじめ、商会の皆が、わっとワタシを囲む。口々に無事を喜び、肩を叩き、手を握ってくる。中には、声を上げて泣き出す者もいた。
「みんな……。心配を、かけたね。——ただいま」
ワタシがそう言うと、仲間たちは、いっそう顔をくしゃくしゃにした。
かつて奴隷だった者。行き場をなくしていた者。詐欺師だった、ニコ。——みんな、ワタシが拾い、共に歩んできた大切な仲間だ。その一人ひとりが、ワタシの無事を我がことのように喜んでくれている。
*
そして——人垣の奥から。
銀色の髪の少女が、おずおずと、進み出てきた。
フィーだ。
大きな瞳に、いっぱいの涙をためている。今にもこぼれ落ちそうな、その涙を、必死にこらえながら。
「ルキ、さま……」
震える声で、フィーがワタシの名を呼んだ。
「ご無事で……本当に、ご無事で……っ」
言葉が、続かない。フィーは、ぎゅっと唇を噛んで——それから堪えきれずに、ワタシの胸に飛び込んできた。
「ルキさまぁ……っ! よかった……! ほんとうに、よかったぁ……っ!」
小さな体を震わせて、フィーが泣きじゃくる。
ワタシは——その頭を、そっと撫でた。
「心配、かけたね、フィー。——もう、大丈夫だよ」
行き場をなくし、震えていた、あの日のフィー。今では、こんなにもまっすぐに、感情をぶつけてくれる。その成長が——ワタシは、嬉しかった。
*
ひとしきり泣いて、フィーが、ようやく顔を上げた、その時だった。
「——ルキウス」
凛とした、けれどどこか震えた声が——ワタシを、呼んだ。
振り向くと——そこに、クラリスティアが立っていた。
いつもの、氷のように、澄ました佇まいで。けれど——その瞳は、揺れていた。
「あなたが……無事で。——本当に、よかった」
彼女は、一歩、また一歩と、ワタシに近づいてくる。その歩みが——少しずつ、速くなる。
「わたくし……あなたが捕らえられたと聞いたとき。それから、剣聖の刃が迫ったとき。——もう二度と、あなたに会えないかと……」
そこまで言って、クラリスティアの声が——詰まった。
*
いつも毅然としている彼女が。今は——今にも泣き出しそうに、顔を歪めている。
「クラリスティア」
ワタシが、名を呼ぶと。彼女は——こらえきれず、ワタシの、すぐ前で、立ち止まった。
「あなたが……あの回廊で、わたくしを抱きとめてくれた。あの瞬間のことを——わたくし、一生忘れません」
その頬を——一筋の涙が伝った。
氷のバラと呼ばれた令嬢。誰にも心を開かず、感情を見せなかった彼女が。今、ワタシの前で——涙を、こぼしている。
ワタシは——そっと、彼女の前に立った。
「間に合って、本当に、よかった。——あなたを、失わずに、済んで」
その言葉に。クラリスティアは——ぐっと唇を引き結び、それから、小さく、けれど確かに——微笑んだ。
その笑顔は——凍りついたバラが、ほころぶような。そんな美しさが、あった。
*
家族。仲間。フィー。そして、クラリスティア。
ワタシを案じ、ワタシのために動いてくれた、すべての人と。こうして、無事を喜び合える。
長く危険な戦いだった。何度も心が折れそうになった。だが——こうしてみんなの顔を見ると、すべての疲れが報われる気がした。
(——守れた)
ワタシは、しみじみと、思った。
大切な、この人たちを。誰一人欠けることなく守り抜くことが、できた。
力を隠すのをやめて、本当によかった。もし、あのままためらっていたら——この笑顔は、なかったかもしれない。
*
その夜。ワタシは、改めて、王宮へと、参じた。
陛下が、今後について話したいと——望まれたのだ。
玉座の間には、陛下のほか、グレイ、そしてオルブライト侯爵の姿もあった。
「ルキウス。——よく、来てくれた」
陛下は、穏やかにワタシを迎えた。あの幽閉されていた頃のやつれた姿から、少しずつ本来の覇気を取り戻しつつあった。
「これからのことだ。——大神官を、いかにして捕らえ、裁くか」
*
「大神官の罪は、もはや明白」
オルブライト侯爵が、口を開いた。
「王命を騙り、陛下を幽閉した大逆。神殿の権威をもってしても、もはや庇いきれますまい。捕縛し、すべての悪事を白日の下に晒すべきです」
「うむ」
陛下が、頷く。
「だが、相手は長らくこの国を裏で操ってきた大神官だ。一筋縄では、いくまい。神殿には、まだあの者に与する者も多かろう」
ワタシは——静かに、考えを巡らせていた。
追い詰められた大神官。あの狡猾な男が、このまま、おとなしく捕らえられるだろうか。——いや。きっと、何か仕掛けてくる。
「陛下。——まずは、大神官の身柄を押さえることが、先決かと」
ワタシの言葉に、陛下は力強く頷いた。
「うむ。——捕縛の命は、オルブライト侯爵に下そう。大逆の罪を、国の法によって正式に問う踏み込みだ。政に通じた、侯爵ほどの適任は、おるまい。——明朝にも、衛兵を率いて向かわせる」
「はっ。——それが、よろしいかと存じます」
*
話し合いを終え、王宮を出ると。夜空には——澄んだ月が、かかっていた。
無実は晴れ、陛下は玉座に戻られた。家族も仲間も、無事だ。事態は、大きく好転した。
だが——元凶たる、大神官は、まだ、どこかにいる。
明朝には、オルブライト侯爵が兵を率いて、あの屋敷へ踏み込む。そうすれば、何かが——わかるはずだ。
ワタシは、月を見上げ——静かに、拳を握った。
束の間の安らぎ。それを噛みしめながらも、ワタシの心はもう、次の戦いを見据えていた。




