第115話 縛める鎖
倒れた剣聖は、ぽつり、ぽつりと——語り始めた。
月明かりの差し込む回廊に、その掠れた声だけが、響く。
「私は——剣しか能のない男だ。幼い頃から、剣の腕だけを磨いてきた。だが——親から継いだ爵位と領地を、治める才はなかった」
剣聖は、自嘲するように唇を歪めた。
「気づけば——領地は、借金で首が回らなくなっていた。私の不甲斐なさのせいで、家を傾けてしまった」
*
「そこへ——あの方が、現れた」
あの方。——大神官のことだ。
「大神官は、私に囁いた。『わしに従えば、借金は帳消しにしてやろう。出世も思いのままだ』と」
剣聖の声に、苦いものが混じる。
「藁にもすがる思いだった。私は——その手を取った。おかげで借金は消え、暮らしも楽になった。何より——」
剣聖は、一度、言葉を切った。
「何より——たった一人の妹のことだ。あれは幼い頃から体が弱くてな、ずっと——床に伏せがちだった」
剣聖の声が、和らぐ。妹を語る時だけ、その顔には——優しさが、滲んだ。
「大神官は、腕の立つ薬師を紹介してくれた。その薬師の調合する薬を飲むと——妹の容態は、嘘のように落ち着いた。長く起き上がれなかったあの子が、庭を歩けるまでになったのだ。私は——どれほど、感謝したか」
妹。——その言葉に、ワタシは、はっとした。
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「だが——大神官の要求は、次第にエスカレートしていった」
剣聖の拳が、震える。
「最初は、ただの護衛だった。それが——人を脅すことになり、やがて——後ろ暗い仕事まで、命じられるようになった。犯罪まがいのことも」
ワタシは、黙って聞いていた。
「さすがに断ろうと、した。こんなことは剣士の誇りに反する、と。だが——」
剣聖の顔が、苦痛に歪んだ。
「あの方は言った。『支援をやめれば、お前はまた借金まみれだ』と。そして——」
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「『お前の妹に与えている、あの薬。——支援を断てば、あれも止まる。妹はまた、あの苦しい病に逆戻りだ。今度は——命の保証も、できぬぞ。それでも逆らうと、いうのか?』と」
ワタシの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
妹の、命を——人質に、取られたのか。
「それを言われては——私はもう、逆らえなかった」
剣聖の目に、涙が滲む。
「妹を守るためなら、私は——どんな汚れ仕事でも、やるしかなかった。剣聖と呼ばれ、敬われながら。その実——大神官の飼い犬。後戻りのできないところまで——堕ちてしまった」
ワタシは、思い出していた。
あの尋問の証人が消されたこと。きっと、それも——この人が、妹のために手を汚した。
*
「……笑えば、いい」
剣聖は、力なく言った。
「妹可愛さに、悪事の片棒を担いだ。哀れな男だと。お前を斬ろうとした私を——存分に、罵ればいい」
ワタシは——首を、横に振った。
「罵ったり、なんてしません」
ワタシの言葉に、剣聖が顔を上げる。
「あなたは——大切な人を、守りたかった。ただ、それだけだ。その気持ちは——間違ってなんか、いない」
ワタシは、剣聖の前に膝をつき、その目をまっすぐ見つめた。
「悪いのは——あなたじゃない。人の弱みにつけ込み、家族の情を人質にして縛りつける。——あの、大神官だ」
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剣聖の目が、大きく見開かれた。
「あなたは——縛られているんだ。借金と、妹さんを人質にした、見えない鎖で。ずっと——苦しんできた」
ワタシは、静かに続けた。
奴隷の隷紋を解いてきたワタシには、わかる。——人を縛る鎖の、苦しみが。それが目に見えるものでも、見えないものでも。
「ワタシは——その鎖を、解きたい」
「……何を、言って」
「あなたを、妹さんごと——その鎖から解き放つ。大神官の支配なんか、もう断ち切っていい」
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「——っ。だが、それは……!」
剣聖の声が、震えた。希望と、恐れの入り混じった声だった。
「妹は、あの薬がなければ——生きていけぬ。私が裏切れば、薬は止まり、あの子は——」
「妹さんの、その病。——ワタシに、診させてもらえませんか」
「……何?」
「ワタシには、鑑定の力がある。物事の本質を見抜く力だ。それに——魔力を操る術も、心得ている」
ワタシは、静かに、しかし、確信を込めて、言った。
「大神官が紹介した薬師。その薬で容態が落ち着くというのも——どこか、引っかかる。もしかしたら、その病には——ワタシの力で、できることがあるかもしれない」
剣聖の目が、見開かれた。
「妹さんを縛る、その薬の鎖も。——ワタシが、必ず、解いてみせます。だから——もう、一人で抱え込まないでください」
ワタシは、剣聖に手を差し伸べた。
「一緒に、終わらせましょう。あなたを苦しめてきた、この千年の——歪んだ鎖を」
*
剣聖は、ワタシの手を、呆然と見つめていた。
その目から——一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……お前は。なんという、男だ」
掠れた声で、剣聖は呟いた。
「斬りかかった敵である、この私を。罵るどころか——救おうというのか」
「敵だなんて、思っていません」
ワタシは、微笑んだ。
「あなたも、ワタシと同じ。——あの男に立ち向かうべき、一人だ。違いますか?」
剣聖の肩が、震える。長い間、たった一人で背負ってきたものが。今——ほどけていくように。
*
「……ああ。——ああ、そうだ」
剣聖は、ワタシの手を取った。その手は温かく、そして——わずかに、震えていた。
「私は——もう、たくさんだ。大神官の命じるまま、剣を振るうのは。妹を人質に取られ、怯えて生きるのは——もう、終わりにしたい」
その目には——もう、あの哀しげな影はなかった。
代わりに宿っていたのは。長く忘れていた——一人の剣士としての、誇りと光だった。
「ルキウス殿。——いや、ルキウス。お前に賭けよう。この命、お前の進む道のために——使わせてくれ」
ワタシは、頷き、その手を、握り返した。
「ありがとうございます。——あなたの、お名前を、伺っても?」
剣聖は——ふっと、口元を、緩めた。剣聖、という、二つ名でなく。一人の、人間としての、表情で。
「アルベルト。——アルベルト・グレーシスだ。長く、忘れていた、名だがな」
「アルベルトさん。——よろしく、お願いします」
月明かりの下。倒すべき敵だった、はずの男が。今、ワタシの味方になった。
雌伏のときを超えて。一つ、また一つと——縛めの鎖が、解けていく。




