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第113話 その手に、すべてを

 回廊に飛び込んだ、その瞬間。ワタシの目に映ったのは——振り下ろされる白刃と。その下で、目を見開く、クラリスティアの姿だった。


 間に合うか、ではない。間に合わせる。


 ワタシは、床を思い切り蹴った。体が、矢のように飛ぶ。


 そして——クラリスティアの体を抱き寄せ、自分の方へと引き込んだ。同時に、もう片方の手で——風を、放つ。


*


 ——ごぅっ!


 巻き起こした風の壁が、剣聖の振り下ろした刃を、横から殴りつけた。


 狙いを逸らされた白刃が、クラリスティアのいた場所を、空しく切り裂く。寸前まで、彼女の首筋があった、その場所を。


 間一髪。——彼女は、ワタシの腕の中にいた。


「——え……?」


 クラリスティアが、呆然と顔を上げる。その緑の瞳が、ワタシを捉えて——大きく、見開かれた。


「ルキ、ウス……? ——どうして、ここに……」


「遅くなって、ごめん」


 ワタシは、腕の中の彼女に微笑みかけた。


「もう、大丈夫だ。——ワタシが、来た」


*


 クラリスティアの瞳が、みるみる潤んでいく。


 張り詰めていた緊張が、解けたのだろう。彼女はワタシの胸に顔をうずめ、小さく肩を震わせた。


「……ぅ、……ルキ、ウス。ルキ、ウス……っ」


 ワタシの名を繰り返し呼ぶ、その声が——涙に濡れている。


 ああ。——間に合って、本当によかった。


 もし、ほんの少しでも遅れていたら。この温かな人を——失っていたかもしれない。そう思うと、背筋が冷たくなった。


 ワタシは、彼女をそっと、自分の後ろへ庇った。


「少しだけ、待っていて。——すぐ、片付ける」


*


 ワタシは、ゆっくりと立ち上がり、剣を構えた。


 周囲には——十数人の衛兵。倒れたレオ兄。武器を失った、ニコたち。


 今まで、ワタシは力を隠してきた。人知れず奴隷を救うために、目立たぬよう、息をひそめて。


 でも——もう、いい。


 大切な人たちが、こうして傷つき、命を狙われている。それを前にして、なお力を出し惜しむ理由など——どこにも、ありはしない。


(——見せて、やる)


 ワタシは、足元の魔力を、静かに練り上げた。


*


「——な、何だ、こいつ……!?」


 衛兵の一人が、槍を突き出してくる。


 ワタシは、それを最小限の動きでいなし、すれ違いざま——剣の峰で、相手の首筋を打った。


 一撃。衛兵が、声もなく崩れ落ちる。


 次の瞬間には、ワタシはもう、別の衛兵の懐に潜り込んでいた。


「は、速——!?」


 最後まで言わせない。当て身で、沈める。


 残りの衛兵が、一斉に斬りかかってきた。だが——遅い。あまりにも、遅い。


 ワタシには、彼らの動きが、止まって見えた。一人、また一人、剣の峰で打ち、当て身で沈めていく。


 殺しは、しない。だが——逆らえば、瞬く間に無力化する。


*


「——風よ」


 ワタシは、短く唱えた。


 渦巻く風が、残った衛兵たちの足をすくう。体勢を崩した彼らに、ワタシは的確に当て身を見舞っていった。


 数十秒。——いや、もっと短かったかもしれない。


 気づけば——立っている衛兵は、一人もいなかった。みな床に転がり、白目を剥いて、気を失っている。


 しん、と。回廊に、静寂が戻る。


 ワタシは剣を下ろし、息を一つ、ついた。


*


「……嘘、だろ」


 倒れていたレオ兄が、呆然と呟いた。


「ルキ、お前……そんな強さを……」


「……だんな。あんた、一体——」


 ニコも、目を丸くして、立ち尽くしている。


 みんなが知らなかった、ワタシの姿。隠し続けてきた力の片鱗。それを——今、初めて見せた。


 驚かせてしまったな。後で、ちゃんと説明しよう。


 でも——今は。


 ワタシは、視線を上げた。回廊の奥。たった一人、その場に立ち、静かにこちらを見据える、男に。


 剣聖。


 彼だけは——ワタシの力を目の当たりにしても、一歩も引かず、剣を構えていた。


*


「……驚いたよ」


 剣聖が、低く言った。


「衛兵たちが、まるで子供のようだ。お前、何者だ。——ただの商人では、あるまい」


「さあ、ね」


 ワタシは、肩をすくめた。


「ただの、辺境伯家の三男坊。——のはず、なんだけどな」


 剣聖の目が、わずかに細められる。その構えには、隙がない。さすが——この国最強と謳われる剣士。衛兵たちとは、格が違う。


 彼を倒さなければ、この奥には進めない。陛下を救い出すことも、できない。


 ワタシは、剣を構え直した。


*


「剣聖さん。——あなたとは、戦いたくない」


 ワタシは、静かに言った。


「でも——その奥に囚われた人を、ワタシはどうしても救わなきゃならない。だから——通させて、もらう」


 剣聖は、しばらくワタシを見つめ、それから——剣を、青眼に構えた。


「……できるもの、なら、な」


 その声には、敵意とも違う、何か——どこか哀しげな響きが、滲んでいた。


 なぜ、この男は、こんな目をするのだろう。


 その答えを知るのは——まだ、少し先のことだった。


 月明かりの差し込む回廊で、ワタシと剣聖は——静かに、対峙した。


 長く温めてきた、この力を。今、すべて——解き放つ。

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