第112話 雌伏のとき、終わる
——時を、少しだけ遡る。
冷たい地下牢の中で、ワタシはその時を待っていた。
いつでも、ここから出られる。だが、むやみに動けば騒ぎになる。だから——好機を待っていた。牢の外が手薄になる、その瞬間を。
長く隠してきた力を振るう覚悟は、もう決めた。あとは——動くべき時が来るのを、待つだけだった。
*
その時は、唐突に訪れた。
牢の外が、にわかに騒がしくなった。慌ただしい足音。何かを叫び交わす声。そして——見張りの衛兵たちが、その持ち場を離れ、駆けていく気配。
「侵入者だと!? ——おい、応援に行くぞ!」
「ここは、いいのか!」
「構わん、罪人は逃げられん! 急げ!」
(——おや。これは)
ワタシは、内心、にやりとした。
外で、何かが起きている。——何の騒ぎかは、わからない。だが、そのおかげで——牢の見張りは、すっかり手薄になった。
(——願ってもない。今が、その時だ)
*
ワタシは立ち上がり、鉄格子の錠前に手をかざした。
魔法で組まれた錠。だが——もう、解き方はわかっている。
精密に魔力を通し、術式の根本の一節を、書き換える。
——かちり。
拍子抜けするほど、あっさりと。錠は、解けた。
(——うん。やっぱり、隷紋に比べれば児戯だな)
ぎい、と。鉄の扉が、音もなく開く。
ワタシは、牢を出た。
数日ぶりの、牢の外。冷たく湿った空気は相変わらずだったが——足取りは、不思議と軽かった。
*
(——さて。まずは、状況の把握だ)
ワタシは、薄暗い通路を進んだ。見張りは手薄。今のうちに、動く。
外の騒ぎが、何なのかは、わからない。だが——この好機を、逃す手は、ない。
この隙に、ワタシは——囚われた陛下を、捜し出す。
陛下の幽閉場所は、おそらく、この牢からそう遠くない。大神官のことだ、邪魔者を一か所にまとめて押し込めておく方が、都合がいいはずだ。
ワタシは気配を殺し、奥へと進んでいった。
*
と——通路の角で、ワタシは一人の衛兵と——鉢合わせた。
「——! 貴様、囚人——!」
声を上げられる前に、ワタシは地を蹴った。相手が槍を構えるより速く——手刀を、首筋に叩き込む。
衛兵は、声もなく崩れ落ちた。気を失っただけだ。命までは、取らない。
(——悪いね。少し、眠っていてくれ)
ワタシは、その衛兵が腰に下げていた剣を拝借した。鞘から抜くと、月明かりに——刃が、鈍く光る。
丸腰では、心もとない。これで——少しは戦える。
(——よし。行くぞ)
剣を手に、ワタシは再び、奥へと駆けた。
*
通路を、いくつか抜けたその時だった。
——きぃん、きぃん!
遠くで、金属の打ち合う音が聞こえた。
(——剣戟の、音?)
ワタシは、足を止めた。
誰かが、戦っている。それも——この、奥の方だ。
まさか、ワタシの仲間が、衛兵と交戦しているのか。胸が、ざわついた。
ワタシは、音のする方へ足を速めた。近づくにつれ、剣戟の音は激しさを増していく。そして——人の叫ぶ声も、混じり始めた。
*
「——クラリスティア嬢!」
「お嬢さん、逃げろ——!」
切迫した、叫び声が、聞こえた。
(——っ、あの声は、ニコ! それに——クラリスティア!?)
間違いない、ワタシの仲間たちだ。そして——その叫びは。誰かが危機に瀕していることを、告げていた。
血の気が、引いた。
仲間が、戦っている。誰かが——クラリスティアが、危ない。一刻の猶予も、ない。
(——っ、間に合え!)
考えるより、先に。ワタシの体は、動いていた。
*
ワタシは、駆け出した。
全力で。通路を蹴り、声のする方へ。
もう、気配を殺すことも忘れていた。とにかく、急ぐ。一刻も、早く。
(——間に合え。——間に合ってくれ……!)
レオ兄がいるなら、きっと、他の仲間も。あるいは——あの人も、いるかもしれない。
ワタシのために、危険を顧みず、ここまで来てくれた、みんな。その誰かが今、命の危機に瀕している。
——もう、迷いはない。
力を隠すだの、目立たぬようにだの。そんなことを言っている場合では、ない。
守る。ワタシの、大切な人たちを。この力の、すべてを使ってでも。
*
「やめろぉ——————!!」
レオ兄の、絶叫が、響き渡った。
その声が、ワタシの足を——さらに、速めた。
通路の角を、曲がる。その先に——光が、見えた。
開けた回廊。月明かりの差し込む、その場所に。
倒れ伏す、レオ兄。武器を失い、立ち尽くす、誰か。それを取り囲む、衛兵たち。
そして——一人の剣士が。今まさに、剣を振り下ろそうとしている。
その切っ先の先に、いるのは——。
(——クラリスティア!?)
銀の月光に照らされた、その横顔を。ワタシは、見間違えるはずもなかった。
白刃が、振り下ろされる。彼女の、細い首筋へ。
——間に合うか。
ワタシは、ありったけの力を、その身に込めた。
雌伏のときは——今、終わった。




