第111話 届かぬ刃
俺、レオ・アーデルハイトは、王宮の奥深くを進んでいた。
クラリスティア嬢の案内は、的確だった。彼女の記憶を頼りに、俺たちは衛兵の目をかいくぐり、ここまで来た。
グレイとかいう爺さんの情報によれば、ルキと、いや、陛下が囚われているのは、この先の古い離宮だ。そして、ルキの牢も、どうやら——そのすぐ近くにあるらしい。
(——待ってろよ、ルキ。今、助けてやる)
俺は奥歯を噛みしめ、足を速めた。
*
だが、離宮へ続く最後の回廊に踏み込んだその時。ぞくり、と——背筋に悪寒が走った。
回廊の中ほど。月明かりの差し込むその場所に——一人の男が立っていた。
長身。鋭い眼光。腰には、一振りの剣。
ただ立っているだけ。なのに、その全身から放たれる圧が——尋常では、なかった。
「——そこまでだ」
男は、静かに言った。
「ここから先へは、通さん」
*
「お前……何者だ」
俺が誰何すると、男はわずかに目を伏せた。
「剣聖、と——人は、わたしをそう呼ぶ」
剣聖。その名を聞いた瞬間、隣でニコが息を呑むのがわかった。
「剣聖、だと……。この国最強の、剣士の?」
俺も、噂は聞いていた。大神官に飼われた、無双の剣の使い手。大神官の意に逆らう者を、誰であろうと斬り伏せる——その手足。
なるほど。大神官は、こんな化け物に、幽閉した陛下の守りを固めさせていたのか。
だが——。
「悪いが、剣聖さんよ」
俺は、剣を抜いた。
「俺たちは、ここを通る。——弟を救うためにな」
*
「下がっていろ」
俺は、クラリスティアたちを背に庇った。
「こいつは——俺が、やる」
辺境で、魔物を何百と斬ってきた。フォレストボアだろうが何だろうが、一刀の下に伏せてきた。腕には、自信があった。
俺は地を蹴り、剣聖に斬りかかった。
渾身の一撃。だが剣聖は、最小限の動きでそれを受け流す。
——きぃん!
甲高い音が、回廊に響いた。
受け止められた。だが、俺とて——一撃で終わるほど、やわじゃない。
俺はすぐに剣を引き、二の太刀を放った。横薙ぎ、そこから返す刃で下段、上段。——辺境で魔物を相手に磨いた、手数の多い連撃だ。
「——っ」
剣聖の眉が、わずかに動いた。
俺の連撃を、一つ、また一つと剣聖が捌いていく。だが、その足が——初めて、半歩退いた。
(——どうだ!)
手応えが、あった。最強と謳われる剣聖を相手に、俺の剣は届きかけている。
「やるな」
剣聖が、低く呟いた。その声には、わずかな感心の色があった。
「魔物斬りの、剣か。荒削りだが——悪くない」
褒められても、嬉しくはない。俺はさらに踏み込み、渾身の唐竹割りを叩き込んだ。
——がぎぃん!
剣聖が初めて、両手で剣を構え、それを受け止める。火花が、散った。
鍔迫り合い。俺は、全体重を剣に乗せる。
「ぐ、ぬ……っ」
押し込め。あと、少し——!
*
だが——そこまでだった。
剣聖が、ふっと力を抜いた。
俺の体が、つんのめる。その一瞬の崩れを、剣聖は——見逃さなかった。
しなやかに身をひねり、俺の剣を受け流しざま——その刃が、俺の脇腹を深く薙いだ。
「——がっ……は!?」
灼けるような痛み。脇腹から、血が噴き出す。
俺はたまらず、膝をついた。
速い。さっきまで捌きに回っていた剣聖が、攻めに転じた途端——その動きが、別物に変わった。
(——なんて、野郎だ。さっきまでのは——様子見、だったのか)
手応えがあったと思ったのは、錯覚だった。剣聖は俺の力を見定めていただけ。その上で、まだ底を見せていなかったのだ。
格が、違う。武人として生きてきたこの俺が、これほど完膚なきまでに叩きのめされたのは——初めてだった。
「レオ様!」
クラリスティアの、悲鳴が響いた。
*
「——脇腹は、急所を外した。が、長くは動けまい」
剣聖が、冷たく言い放つ。情けではない。ただ、事実を告げただけだ。
その目に、迷いはなかった。さっき、わずかに見えた悲しげな色。それを——この男は、自ら押し殺している。
「次は、急所を、突く。——立てぬなら、それまでだ」
無慈悲な、言葉だった。
俺は脇腹を押さえ、よろめきながら、なお剣を構えようとした。だが、体に力が入らない。血が、止まらない。
(——くそ……っ。立て。立てよ、俺の体……!)
「——お退きなさい!」
その時だった。
俺の前に、クラリスティアが進み出た。手には、いつの間にか——細身の剣が、握られている。
*
「クラリスティア嬢!? お前、何を——!」
「レオ様は、もう、戦えません。なら——わたくしが」
その構えを見て、俺は、目を、疑った。
隙が、ない。
令嬢の、ただの護身術ではない。腰の据わった、本格的な剣の構えだった。
「言い忘れて、おりましたが」
クラリスティアが剣聖を見据え、静かに言った。
「わたくし、これでも——学院の剣術大会で優勝した身です。淑女のたしなみと、侮られては——困りますわ」
次の瞬間、クラリスティアが——地を蹴った。
*
——しゃん、しゃん、しゃん!
澄んだ金属音が、連続して響く。
クラリスティアの剣が、剣聖の刃と——何合も、打ち合っている。
速い。そして——美しい。
無駄のない、洗練された剣筋。まるで舞うように、剣聖の攻撃をいなし、時に——鋭い突きを、返す。
あの氷のバラが、こんな剣を——使うのか。
「——ほう」
剣聖の声に、初めて——はっきりとした驚きが、混じった。
「貴族の、令嬢が。大したものだ」
だが——それでも。
打ち合いが続くほどに、クラリスティアの息が——上がっていくのが、わかった。
*
(——だめだ。地力が、違いすぎる)
俺は膝をついたまま、歯噛みした。
クラリスティアの剣は、見事だった。だが、相手が悪すぎる。大会で優勝するほどの腕前も、この国最強の剣聖の前では——。
じりじりと押されていく。一合、また一合と、クラリスティアの剣が弾かれ、体勢が——崩れていく。
「——っ、はぁ……っ」
クラリスティアの額に、汗が滲む。剣を握る手も、もう——限界が、近い。
「見事な剣だ。だが——ここまでだ」
剣聖が、ひときわ強く——クラリスティアの剣を、打ち払った。
——きぃん!
甲高い音とともに、クラリスティアの剣が宙を舞い、床に——転がる。
「——あ……っ」
武器を失い、クラリスティアが——よろめいた。
*
「クラリスティア嬢!」
「お嬢さん、逃げろ——!」
ニコたちが叫ぶ。だが、間に合わない。衛兵に阻まれ、誰も——動けない。
剣聖が、剣を振りかぶった。
その切っ先が、無防備なクラリスティアへと——向けられる。
「——女神の、御心のままに」
剣聖の刃が、月明かりを弾いて——煌めいた。
俺は、動けない。ニコたちも、届かない。クラリスティアは、ただ目を見開いて——迫る死を、見つめている。
「やめろぉ——————!!」
俺の、喉が、張り裂けんばかりの、絶叫を、放った。
白刃が、振り下ろされる。
クラリスティアの、細い首筋へ向かって——。




