第110話 闇に紛れて
決行の夜が、来た。
月の出ていない闇夜。ルキウスを、そして陛下を救うには——これ以上ない好機だった。
わたくし、クラリスティア・オルブライトは。地味な暗い色の外套に身を包み、王城の外れの物陰に潜んでいた。
隣には、レオ様。そして、ニコと、商会の腕利きたち。皆、息を殺し、その時を待っている。
心の臓が、早鐘のように打っていた。緊張で、指先がかすかに震える。——けれど、退くつもりはなかった。
*
「——始まったな」
レオ様が、低く呟いた。
城門の方から、騒がしい声が聞こえてくる。
「ルキはどこだ! わしの倅を、どこにやった! 親が子に会って、何が悪い!」
ガイウス様の、朗々とした怒声だった。
辺境伯ともあろう御方が、城門で大声を上げて騒いでいる。そのただならぬ様子に——衛兵たちが、わらわらとそちらへ駆けていくのが見えた。
「父上め……。とんでもない大芝居だ」
レオ様が苦笑する。けれど、その目は——父の覚悟を噛みしめるように、潤んでいた。
ガイウス様は今、わが身を盾に囮となって、息子のために騒ぎを起こしている。
*
時を同じくして。城の別の一角では——父が、動いているはずだった。
オルブライト侯爵家の当主として、大神官のもとを訪ね、「陛下のご容態が案じられる」と堂々と問いただす。あの狡猾な大神官の注意を——少しでも、引きつけるために。
二人の父が、それぞれの場所で、命がけの囮を演じている。
(——わたくしも、やり遂げなければ)
わたくしは、ぐっと唇を引き結んだ。二人の父の覚悟を、無駄にするわけにはいかない。
「——今です。衛兵の目が、逸れています」
わたくしは、声を潜めて言った。
「こちらへ。——わたくしに続いてください」
*
わたくしたちは闇に紛れ、王城の塀へと走った。
あらかじめニコたちが調べておいた、人目につかぬ裏手の一角。商会の腕利きが慣れた手つきで塀をよじ登り、上から縄を垂らす。
わたくしも、その縄を掴んだ。
令嬢として生きてきたこの身に、塀を乗り越えるなど——生まれて初めてのことだった。けれど、不思議と、体は動いた。
ルキウスを救う。その一念が、わたくしを突き動かしていた。
塀の上から、内側へ。そっと降り立つ。
——王城の、敷地内。ついに、忍び込んだのだ。
*
「クラリスティア様。——こっからは、あんたが頼りだ」
ニコが囁いた。
「ええ。——お任せください」
わたくしは、記憶をたどった。
何度も足を運んだ、王宮。華やかな夜会。厳かな式典。あの頃は——まさかこうして闇に紛れて忍び込むことになるとは、夢にも思わなかった。
けれど、その経験が、今——役に立つ。
「あちらの回廊は、表の大広間に通じています。人目が多い。——こちらの渡り廊下を使いましょう。普段から、人の少ない道です」
わたくしは先頭に立ち、皆を導いた。
*
月のない闇が、味方だった。
わたくしたちは、植え込みの影から影へと、身を移しながら進んだ。
時折、遠くで衛兵の足音が聞こえる。そのたびに息を殺し、物陰に身をひそめる。心臓が、口から飛び出しそうだった。
「——止まって」
わたくしは、手で皆を制した。
前方の角から、灯りが近づいてくる。巡回の衛兵だ。
わたくしたちは柱の陰に身を寄せ合い、息を潜めた。
衛兵の足音が、すぐそばを通り過ぎる。槍の石突きが、床を叩く音。低い欠伸。
——どうか、気づかないで。
わたくしは、祈るような思いで、目を閉じた。
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やがて、足音は遠ざかっていった。わたくしたちは、ほっと息をつく。
「……肝が、冷えた」
ニコが、額の汗を拭った。
「クラリスティア様。あんた、大した度胸だ。令嬢様だってのに、震えてもいない」
そう言われて——わたくしは、内心、苦笑した。
震えていないのではない。震えるのを——必死でこらえているのだ。怖くてたまらない。一歩間違えれば捕まり、すべてが水の泡になる。
けれど。
(——ルキウスも、こんな思いを。いいえ、もっと恐ろしい思いを、独りで)
冷たい牢の中で。何の罪もないのに、理不尽に囚われたあの方。それを思えば——わたくしの恐怖など、ものの数ではない。
*
「先を、急ぎましょう」
わたくしは、皆を促した。
進むほどに、王宮の奥へと近づいていく。
このあたりは——王族の、私的な区画。普段、めったに立ち入ることのできない領域だ。
もし、陛下が幽閉されているとすれば。きっと、この奥の——人目から最も遠い場所。
いえ——「きっと」では、ない。
陛下の居場所は、すでに、わかっていた。陛下の側に長く仕える、老侍従グレイ様。あの方が、ひそかに、わたくしたちに、教えてくださったのだ。陛下が、どこに、閉じ込められているのか——を。
この渡り廊下を抜けた先にある、古い離宮。表向きは使われていない、その奥に。陛下は、囚われている。
(——そこへ、向かうのよ)
グレイ様から授かった、確かな道しるべが——わたくしの、胸にあった。
*
だが——奥へ進むにつれ、空気が変わった。
警備が、明らかに厳しくなっている。要所要所に衛兵が配置され、灯りも増えていた。
これまでのように、易々とは——進めない。
「……ここから先は、衛兵の数が、多いですね」
わたくしは、物陰から奥をうかがいながら囁いた。
「ああ。これだけ固めてるってこたあ——この先に、大事なものがある証拠だ」
レオ様が、低く唸った。
「陛下は間違いなく、この奥にいる。——だが、どうやって突破する」
厳重な警備。立ちはだかる衛兵たち。——ここからが、本当の正念場だった。
*
わたくしは、闇の奥を見据えた。
その向こうに、囚われた陛下がいる。そして——陛下を救い出せば、ルキウスの無実を晴らす道が開ける。
あと少し。あと少しなのだ。
胸の奥で、恐怖と決意が、激しくせめぎ合う。けれど——わたくしは、もう止まらない。
(——ルキウス)
わたくしは、心の中で、愛しい人の名を呼んだ。
(——今、参ります。どうか——もう少しだけ、お待ちを)
冷たい夜の王宮。その最奥へ。わたくしたちの決死の潜入は——いよいよ佳境へと、差しかかっていた。




