第108話 二人の父
その日、わたし——オルブライト侯爵家当主、エドガー・オルブライトは。屋敷の客間で、一人の客人を待っていた。
アーデルハイト辺境伯、ガイウス殿。
北の果てを治める辺境伯にして——ルキウス殿の、実の父。娘の想い人の、父親だ。
娘クラリスティアの頼みもあり、わたしはこの会合を設けた。
……いや。頼み、というだけでは、ない。
思えば、少し前までのわたしなら、こんな会合など——決して、開かなかっただろう。あの商会を「家名を貶める、危険分子」と切り捨て。娘の語る理念を「子どもの戯言」と、一蹴していた。娘に、後ろ盾を降りよと迫ったことすら、ある。
その、わたしが。——今は、こうして、その商会の主を救うために、動いている。
変えたのは——娘だ。氷のように感情を殺してきたあの子が、人目もはばからず泣き、生まれて初めて、心からの願いを口にした。あの姿を見て、わたしは——己の頑なさを、恥じた。娘が、これほどまでに想い、多くの民が慕う若者とは、いったい何者なのか。それを、この目で確かめたいという思いも、あった。
だが正直、わたしはどこか身構えてもいた。辺境の武人。さぞ粗野で気難しい御仁ではないか、と。
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だが——その予想は、扉が開いた瞬間に覆された。
「おお! あなたがオルブライト侯爵殿か! わざわざ時間を取っていただき——かたじけない!」
部屋に入ってくるなり、その大男は朗々と声を張り上げた。
熊のような巨躯。日に焼けた厳つい顔。だが、その目は——驚くほどまっすぐで、澄んでいた。
「アーデルハイト辺境伯、ガイウスだ。——倅が、世話になっておる」
差し出された手は、ごつごつと節くれだち、剣だこに覆われていた。長年、自ら剣を握り、領地を守ってきた者の手だ。
わたしは、その手を握り返した。
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「オルブライト侯爵、エドガーと申します。どうぞ、おかけください」
席に着くなり、ガイウス殿は深々と頭を下げた。
「侯爵殿。——まずは礼を言わせてくれ。倅のために、侯爵家が動いてくださると聞いた。この通りだ」
辺境伯といえば、家格はわが侯爵家と並ぶか、それ以上。その当主が、ためらいもなく頭を下げる。
その姿に、わたしは——少なからず、心を動かされた。
体面や家格にこだわる貴族なら、こうはいくまい。この御仁は——そんなものよりも、ただ息子を救いたい、その一心なのだ。
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「頭を、お上げください、辺境伯殿」
わたしは、穏やかに言った。
「礼には及びません。わたしも——ルキウス殿のためなら、力を尽くしたいと思っているのです」
「侯爵殿は——倅を、ご存じなのか」
「ええ。直接お会いしたことはありませんが、娘から——よく、話を聞いております。民のために身を削り、この国をより良くしようとしている、稀有な若者だ、と」
ガイウス殿の厳つい顔が——ふっと、緩んだ。
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「そうか。——倅は、そんな風に」
ガイウス殿は、しみじみと言った。
「侯爵殿。正直に言おう。わしは長らく、あの子のことを——わかって、やれていなかった」
意外な言葉だった。
「あの子が、貴族らしからぬ商売や改革にのめり込むのを。わしは家門の名に泥を塗ったと——叱りつけたことすら、ある。情けない父親だ」
ガイウス殿の声に、悔いが滲む。
「だが今は、わかる。あの子は誰よりもまっすぐで、誰よりも人のために生きておる。それを王都に来て、改めて思い知った。あの子を慕う人々の多さに——胸が、熱くなったよ」
わたしは、この武骨な父親の言葉に——静かな感銘を、受けていた。
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(——なるほど。この父にして、あの息子あり、か)
不器用で、まっすぐで。間違いを認め、子を誇りに思う。——娘や、商会の者たちが口を揃えて語る、ルキウス殿の誠実さ。それはきっと、この父から受け継いだものなのだろう。
(——娘が惚れ込むのも、わかる気がするな)
ちらりと、そんな考えが頭をよぎった。だが今は、それを口にする時ではない。まずは——ルキウス殿を救うことが、先決だ。
わたしは、表情を引き締めた。
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「辺境伯殿。——率直に、申し上げます」
わたしは、声を低くした。
「今回のルキウス殿の逮捕。その背後にいるのは——大神官、ベルゲン猊下で間違いないでしょう」
「うむ。——わしも、そう聞いておる」
ガイウス殿の顔が、険しくなった。
「だが、相手は神殿を束ねる大神官。生半可なことでは——倅を、取り戻せまい」
「ええ。——しかも、気がかりな噂があります」
わたしは、さらに声を潜めた。
「陛下が近頃、表にお姿を見せられない。そして大神官が、政務を代行している、と。——これは、ただ事ではありません」
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「侯爵殿は——どう、見る」
「おそらく陛下は、大神官に何らかの形で抑え込まれている。軟禁、あるいは——幽閉。その上で大神官が王の名を騙り、ルキウス殿に、ありもせぬ罪を着せた」
わたしの推測に、ガイウス殿は——低く、唸った。
「では倅は、王の敵ではなく——大神官の敵として、嵌められたのか」
「ええ。ですからこれは、単なる一商人の冤罪ではありません。この国の根幹に関わる——大きな企てなのです」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
相手は、あまりに大きい。だが——だからこそ、ここで引くわけにはいかない。
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「——辺境伯殿」
わたしは、ガイウス殿をまっすぐ見た。
「手を、組みませんか。わがオルブライト侯爵家には、王都での伝手と政治の力があります。そして——アーデルハイト辺境伯家には」
「武力が、ある」
ガイウス殿が、後を引き取った。その目に——猛々しい光が、宿る。
「辺境で魔物と渡り合ってきた、我が家の兵だ。いざとなれば——役に、立とう」
「心強い限りです。侯爵家の知略と、辺境伯家の武力。——この二つが合わされば、大神官といえど——容易には崩せぬ壁となりましょう」
*
「侯爵殿」
ガイウス殿が、ぐっと身を乗り出した。
「では——共に、戦ってくださるか。倅を、ルキを——救い出すために」
「無論です」
わたしは、迷いなく答えた。
「娘が心から案じ、多くの民が慕う御方だ。わたしも——このエドガー・オルブライトの名にかけて、必ずやお救いいたしましょう」
「——かたじけない!」
ガイウス殿は、再び深く頭を下げた。今度は、わたしも——それを、止めなかった。
これは——礼を受けるに値する、覚悟の表れなのだから。
*
その後、わたしたちは——具体的な方策を、練った。
まずは、それぞれの伝手を使い、陛下の安否と所在を探ること。同時に、ルキウス殿が囚われている場所を突き止めること。そして——救出の機会をうかがいつつ、大神官の偽りの王命を覆す大義名分を整えること。
話し合いは、夜更けまで続いた。
ガイウス殿は武人らしく、時に豪快に笑い、時に息子を想い、声を詰まらせた。その一つひとつに——わたしは、好感を覚えていた。
(——良い、御仁だ)
体面ばかりの貴族社会にいると、こういうまっすぐな人柄は——かえって、眩しく映る。
*
会合を終え、ガイウス殿を見送った後。わたしは一人、窓辺に立ち、夜空を見上げた。
星々の瞬く空の下。今、この王都のどこかで、ルキウス殿という若者が囚われている。
娘が初めて心を寄せた相手。多くの民が慕う青年。そして——あのまっすぐな父が、命がけで救おうとする、息子。
(——必ず、救い出す)
わたしは、心に誓った。
もはやこれは——娘のため、だけではない。理不尽に虐げられた一人の若者を。そして——この国の歪んだ秩序そのものを、正すための戦いだ。
二人の父が——今、手を結んだ。
その灯火は小さくとも、やがて大きなうねりとなって、あの傲慢な大神官に——立ち向かうことになるだろう。
わたしは、そんな予感を胸に、静かに拳を握りしめた。




