第106話 牢の中で
牢に放り込まれてから、何日が過ぎただろう。
光の乏しい地下牢では、時間の感覚が曖昧になる。差し込むわずかな光の色合いだけが、朝と夜とを教えてくれた。
ワタシは硬い寝台に腰かけ、ぼんやりと鉄格子を眺めていた。
(——いやはや。とんでもないことになったなあ)
心の中で、そうぼやく。
ついこの間まで、商会で帳簿とにらめっこしていたのに。気づけば王都の地下牢で、罪人扱い。人生、何が起こるかわからないものだ。
*
とはいえ。
ワタシは別段、絶望してはいなかった。
なぜなら——この牢から出るのなど、その気になれば造作もないからだ。
ワタシは、鉄格子の錠前に目をやった。そして——軽く、鑑定の力を走らせる。
(——なるほど。ただの錠じゃ、ないな)
その錠前は、魔法で構築された特殊なものだった。鍵穴に金属の鍵を差すのではなく、術式そのものが錠の役割を果たしている。——罪人が生半可な魔法で、こじ開けられないように。
なるほど、よく出来ている。普通の囚人なら、まず、お手上げだろう。
だが——ワタシには、関係なかった。
(——この術式の、根を、こう、ほどいて……)
ワタシは頭の中で、その魔法の構造を——解きほぐしていく。
奴隷の隷紋。あの複雑で悪辣な束縛の術式すら——ワタシは、いくつも解いてきた。一人ひとりの命を縛る、その鎖を。少しずつ、丁寧に——ほどいてきたのだ。
それに比べれば、この程度の錠の術式など児戯に等しい。精密に魔力を通わせ、根本の一節をそっと書き換えるだけで——錠は、音もなく解ける。
要するに——ワタシは、いつでもここから出られる。ただ、今は出ないだけだ。
*
(——焦っちゃ、いけない)
ワタシは、自分に言い聞かせた。
ここで力ずくで脱獄すれば、本当に「お尋ね者」になる。それに何より——この騒動の裏で何が起きているのか、それを知らないまま動くのは危険すぎる。
誰が、何のために、ワタシを陥れたのか。王命というが、本当に王がそんな命令を出したのか。
その答えを掴むまでは。
だからワタシは待った。じっと耳を澄ませ、情報を集めながら。
牢の見張りに立つ衛兵たち。彼らの何気ない会話の中に、答えは転がっているはずだった。
*
その日も、ワタシは寝たふりをして、耳を傾けていた。
牢の外で、二人の衛兵が暇を持て余し、小声で話している。
「なあ……最近、どうも、おかしくないか」
「ああ。陛下が、ずっとお姿を見せられないだろ。ご体調を崩されたとかで」
「政務は全部、大神官猊下が代行されてるんだよな。なんだか、きな臭いよなあ」
「滅多なこと言うなって。聞かれたら、首が飛ぶぞ」
二人は、それきり口をつぐんだ。
だが——ワタシには、十分だった。
*
(——そういう、ことか)
ワタシの頭の中で、バラバラだった点が、一本の線に繋がっていく。
王が姿を見せない。体調不良という名目で。そして、大神官が政務を代行している。
あの王が——ワタシを信じ、「共にこの国を変えよう」と夢を託してくれた、あの王が。突然、表舞台から消えた。
(——偶然のはずが、ない)
きっと王は、大神官に逆らったのだ。あるいは——ワタシを庇おうとして。
その結果、「体調不良」を口実に、宮の奥深くへ押し込められた。幽閉、されたのだ。
そして大神官は、王の名と印璽を好き勝手に使い、この偽りの王命を、でっち上げた。
すべては、あの男——大神官ベルゲンの、仕業。
*
冷たい怒りが、腹の底からこみ上げてきた。
王は——あの優しい王は。きっと今、ワタシと同じように、どこかで独り、囚われている。
千年の傀儡であることに苦しみながら、それでも勇気を振り絞って立ち上がった。その矢先に。
(——見捨てられる、わけがない)
ワタシを信じてくれた、あの人を。ここで見殺しになんて、できるか。
それに——。
ワタシは、牢の天井を見上げた。
フィー。ニコ。メイア。商会のみんな。クラリスティア。そして、辺境の家族。
ワタシが捕らえられたと知って、今頃どれほど心を痛めているだろう。どれほど必死になってくれているだろう。
あの温かな人たちを、これ以上不安がらせてたまるか。危険な目に遭わせて、たまるか。
*
(——もう)
ワタシは、ゆっくりと立ち上がった。
(——もう、隠れている場合じゃない)
これまでワタシは、ずっと——力を隠して、生きてきた。
理由は、はっきりしている。人知れず、奴隷を、解放するためだ。
もし、ワタシが人並み外れた力を持っていると知れれば。あれこれと、注目を集めてしまう。そうなれば——ひそかに動くことなど、できなくなる。誰が奴隷たちを救っているのか、いずれ足がつく。大神官のような、奴隷制度で甘い汁を吸う連中に——目を、つけられる。
だから、ワタシは力を隠した。鑑定で隷紋を見抜き、誰にも気づかれぬよう一人ずつ解き放つ。——その活動を守るために、「ただの辺境伯家の三男坊」で——あり続けた。
目立たぬよう、ほどほどに。——それが、大切なものを守るための最善だと、信じて。
でも——今は、違う。
力を隠していては、王も、仲間も、守れない。
ワタシを信じてくれた、王。ワタシを案じてくれる、仲間や家族。——その守るべきものが、ここまで追い詰められているのに。なお力を惜しんで、隠れているなんて。
そんなもの——ただの、臆病だ。
隠してきた活動が露見しても、構わない。この力を、人前で振るうことになっても、構わない。——みんなを、救えるなら。
(——出してやる)
ワタシは、自分の手のひらを見つめた。
長く抑え込んできた、この力。女神に与えられ、努力で磨いてきた、この力を。
(——この、ワタシの本当の力を。今こそ、解き放つ)
*
不思議と、心は凪いでいた。
恐怖も、迷いもない。あるのはただ——やるべきことをやる、という静かな決意だけ。
(——待っていてください、陛下)
ワタシは、心の中で、囚われの王に語りかけた。
(——必ず、お助けします。そして——みんなも)
そして最後に。あの大神官に向けて。
(——ベルゲン猊下。あなたが千年守ってきた、その「秩序」とやらが、どれほど脆いものか。そろそろ、思い知らせて差し上げます)
鉄格子の向こうの闇を見据える。その奥に潜む、巨大な敵を睨むように。
長い雌伏の時は、終わった。ここから先は——ワタシの番だ。
冷たい牢の中で、ワタシの胸の奥は、これまでにないほど熱く燃えていた。




