第105話 父の決断
その早馬が、屋敷に駆け込んできたのは、夕暮れ時のことだった。
砂塵にまみれ、息も絶え絶えの使者。その手には、王都からの一通の急報が握られていた。
わしは執務室でその書状を受け取り、文面に目を走らせた、その瞬間。
全身から、血の気が引いた。
*
「……ルキが。捕らえられた、だと?」
書状には、こう記されていた。
ルキウス・フォン・アーデルハイトが、「国家転覆を企てた」咎により王都にて捕縛された——と。
わしはしばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。
頭が、理解を拒んでいた。
国家転覆。——あの、ルキが。
馬鹿な。あり得ぬ。何かの、間違いに、決まっている。
あの子がそんな大それたことを企むはずがない。あれは——民のため、人のために身を粉にして働く、優しい子だ。
「……ガイウス様」
報せを運んできた使者が、青ざめた顔で片膝をつき、わしの言葉を待っていた。
*
「これは……まことか。——確かな、報せなのだな」
「は……。王都の、確かな筋からの報せにございます。残念ながら——偽りでは、ないかと」
わしは、書状を握る手に力を込めた。
ぎり、と。羊皮紙が、音を立てる。
怒りが、腹の底から突き上げてきた。
誰だ。一体、誰が——わしの息子を、あのまっすぐな子を。「国家転覆」などというありもせぬ罪で、縛り上げたのは。
「父上!」
扉が勢いよく開いた。飛び込んできたのは次男のレオだった。その後ろには、エルマも、ヴィルも、セリアもいる。みな、ただならぬ気配を察して駆けつけたのだろう。
「夜分に、早馬が来たと——一体、何が、あったのです」
レオが、険しい顔で——わしに問うた。
わしは、すぐには答えられなかった。
この報せを、どう伝えればよいのか。だが——隠しておけることでは、ない。
わしは書状を握りしめ、ゆっくりと——口を、開いた。
「……ルキが。王都で、捕らえられた」
「——え?」
家族の、顔が、凍りついた。
「『国家転覆を企てた』咎で、衛兵に——引き立てられた、そうだ」
「そ、そんな……!」
セリアが、両手で口を覆う。
「ルキが、捕まったって——!? 父上、何かの、間違いだろ!?」
*
レオの顔は蒼白だった。普段、弟に憎まれ口ばかり叩くあの子が。今は、まるで自分のことのように取り乱している。
「ルキが! ——どうして、ルキが、そんな目に!」
「レオ、落ち着け」
わしは努めて声を低くした。だが、その声も——わずかに、震えていた。
「ルキが……うちのルキが……?」
セリアが、その場に——くずおれた。
「いや……。いやよ、そんなの。ルキが、何をしたっていうの……!」
涙をぼろぼろとこぼす娘。その肩を、エルマがそっと抱きしめた。
妻もまた、唇を固く結び、目には涙を浮かべていた。だが——取り乱しはしなかった。気丈に、娘を支えている。
*
「父上」
長男のヴィルが進み出た。冷静だが、その拳は——固く、握られている。
「ルキが、罪を犯すなど、断じてあり得ません。これは、何者かの、企みです。——僕たちが、動かなければ」
「ああ」
わしは、頷いた。
そうだ。ここで、うろたえている場合ではない。
わしは、アーデルハイト辺境伯。そして——ルキの、父だ。
息子が窮地にある。ならば、親がすべきことは——一つしか、ない。
「——王都へ、向かう」
わしは、立ち上がった。
「支度をせよ。一刻も早く王都へ発つ。ルキを、救い出す」
*
「俺も行く!」
真っ先に、声を上げたのは、レオだった。
「ルキは、俺の弟だ。あいつを見捨てて、おけるか!」
「レオ……」
「お前、いつもあいつに、口うるさく言ってたくせに」
セリアが、涙ながらに、小さく笑う。
「うるせえ! ——だからって、弟が危ない目に遭ってるのに、黙っていられるかよ!」
レオのその言葉に、わしは——胸が、熱くなった。
憎まれ口の奥にある、深い兄弟の情。それは——わしが思っていた以上に、強いものだったのだ。
*
「お前たち」
わしは、家族を見回した。
「聞いてくれ。ルキは——確かに、王都で何をしているのか、その全てはわしにもわからん。商売だの改革だの、難しいことは——わしの頭では、ついていけぬ」
わしは、一度——言葉を、切った。
「だが——これだけは、断言できる。あの子は、悪事を働くような人間ではない。あの子の目を見ればわかる。ルキは——誰かを陥れたり、国を乱したりする子では、断じてない」
かつて、わしはあの子の活動を「家門の名に泥を塗った」と叱りつけた。あの頃のわしは、何もわかっていなかった。
だが、今は、違う。
あの子が、どれほどまっすぐで。どれほど人のために生きているか。——この目で、見てきた。帰郷したあの子の姿を。誇らしげに笑う、あの顔を。
*
「だから、わしは、ルキを、信じる」
わしの言葉に、家族が——深く、頷いた。
「ヴィル。お前は領地を頼む。当主代理として、家を守れ」
「……はい。お任せください。ですが、父上——どうか、ルキを」
「ああ。必ず、連れ戻す」
わしは、ヴィルの肩を叩いた。
「エルマ、セリア、レオ。——共に、来てくれるな」
「もちろんです、あなた」
エルマが涙を拭い、力強く頷いた。
「ルキは、わたしたちの大切な家族。——家族が家族を助けるのに、理由など——いりません」
その言葉に、わしは——改めて、この家族の強さを——思い知った。
*
その夜のうちに、旅の支度は、整えられた。
わしは、屋敷の窓から——暗い夜空を、見上げた。
星々の向こう、遠い王都の空の下で。今、ルキは——独り、囚われている。
どれほど心細い思いをしているだろう。冷たい牢の中で、どれほど——。
そこまで考えて、わしは——頭を、振った。
弱気になっては、ならぬ。
(——待っていろ、ルキ)
わしは、心の中で、息子に、語りかけた。
(——父が、必ず、行く。家族みんなで、お前を、迎えに行く。だから——それまで、どうか、無事で、いてくれ)
*
翌朝、まだ夜も明けきらぬうちに、わしたちは——辺境を、発った。
馬車が、街道を駆けていく。北の果ての領地から、遠い王都を目指して。
冷たい朝の風が、頬を打つ。だが、わしの胸の中は——燃えていた。
息子を、救う。その一念だけが——わしを、突き動かしていた。
かつて、あの子とすれ違い、対立した、この父が。今は——誰よりもあの子を信じ、救うために走っている。
時が、わしたちを変えたのだ。そして、その時を作ってくれたのは——他でもない、ルキ自身だった。
「待っていろよ、ルキ」
わしは、ぽつりと、呟いた。
馬車は、朝靄を裂いて、ひたすらに——王都へと、急いだ。




