第104話 氷のバラの涙
その報せがもたらされたのは、よく晴れた昼下がりのことでした。
わたくし、クラリスティア・オルブライトは。オルブライト侯爵家の屋敷で、いつものように静かな午後を過ごしておりました。
社交界では「氷のバラ」などと、そう呼ばれているわたくし。感情を表に出さず、いつも冷静であること。それが——わたくしの、流儀でした。
けれど、その日。その流儀は——あっけなく、崩れ去ることになったのです。
*
「お嬢様。——商会の、方々が——火急の、ご用件で、と」
その日、わたくしのもとに——商会から、急ぎの繋ぎが、入りました。
「火急の用向きにて、お目にかかりたい」——と。
ルキウスを陰ながら支えるにあたり、わたくしは商会の者と、いざという時の連絡の手立てを、決めてありました。その、めったに使われぬはずの繋ぎが——使われた。ただ事では、ありません。
わたくしはすぐに人を遣り、彼らを屋敷の一室へ——招き入れました。
通されて来たのは、見覚えのある顔ぶれ。——アステリア商会の、ニコという青年。それに、数人の仲間たち。
わたくしが陰ながらルキウスを支えるために、時に情報を渡し、時に手を貸してきた。その繋がりで——見知った、人たち。
その彼らが、血相を変えて——わたくしの前に、立っている。
(——何か——あったのですか)
胸騒ぎが——しました。
*
「クラリスティア様。——突然——申し訳、ありません」
ニコが、切迫した声で——口を、開きました。
「実は、だんなが……ルキウスのだんなが。——捕まっちまったんです」
「——え?」
わたくしは一瞬、彼の言葉の意味が——わかりませんでした。
「衛兵に『国家転覆の罪』だって、いきなり。王命だって書状を突きつけられて——だんなは、連れていかれちまった」
国家転覆。王命。——連れて、いかれた。
その言葉たちが、わたくしの頭の中で——うまく、像を結びません。
「ルキウス、が……?」
声が——掠れました。
*
その、瞬間。
わたくしの中で、何かが——音を立てて、崩れました。
いつも、どんな時も保っていたはずの冷静さ。「氷のバラ」と呼ばれた、あの澄ました仮面。
それが、一瞬で——剥がれ落ちてしまった。
「そんな……。なぜ、ルキウスが——そのような、罪で」
わたくしは、立ち上がっていました。心の臓が——早鐘のように、打っています。
ルキウスが捕らえられた。処刑される、かもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、目の前が——真っ暗に、なりました。
「そんなこと……。あって、いいはずが——ありません」
気づけば、わたくしの頬を——涙が、伝っていました。
*
「お嬢様……?」
ニコたちが、驚いた顔で——わたくしを、見ています。
無理もありません。「氷のバラ」が人前で、こんなにも——取り乱す、なんて。
でも——抑えられ、なかった。
ルキウス。あの、まっすぐな瞳。民を想う心。わたくしの凍りついた心を、溶かしてくださった——あの、御方。
いつしか、わたくしは——あの方を、お慕いしていた。
その御方が今、冷たい牢の中で。あるいは、もっと恐ろしい——運命の、淵に。
(——いや。——そんな、こと)
「クラリスティア!」
その時、凛とした声が——響きました。
*
扉のところに立っていたのは、父——オルブライト侯爵、でした。
「騒がしいと、思えば……。——一体——何事だ」
父は、わたくしの涙に濡れた顔を見て——目を、見開きました。
「クラリスティア。——お前——泣いて、いるのか」
父の驚きは、もっともでした。
わたくしは幼い頃から、めったに泣かない子でした。母を亡くしたあの時すら、人前では——涙を、見せなかった。
その、わたくしが、人目もはばからず——泣いている。
「お父様……」
わたくしは、言葉に詰まりました。
*
「……この者たちは。——見慣れぬ顔だが。一体——何が、あった」
父の、いぶかしむような問いに。——ニコが、進み出ました。
「お初に、お目にかかります。——わたしは、アステリア商会で番頭を務める、ニコと申します」
そう名乗ってから、ニコは——事情を、説明しました。
自分たちがルキウスの商会の者であること。そのルキウスが「国家転覆」の罪で捕らえられたこと。それが、あまりに突然で——不可解で、あること。
父は腕を組み、険しい顔で——聞いていました。
そして話が終わると、父は——わたくしに、向き直りました。
「クラリスティア。——一つ——聞かせて、もらおう」
その声は静かでした。けれど——有無を言わせぬ、響きがありました。
「お前はなぜ、そこまで——一介の商人のことで、取り乱す。——お前らしくも、ない」
*
わたくしは、うつむきました。
言うべきか、言わざるべきか。
けれど、もう——隠してはいられませんでした。
ルキウスが危機にある。それを前にして、自分の気持ちを偽ることなど——できるはずも、ありません。
「……お父様」
わたくしは顔を上げ、まっすぐに——父を、見つめました。
「わたくしは、ルキウスを——お慕いして、おります」
父の眉が、ぴくり、と——動きました。
「あの方は、一介の商人ではありません。民のために身を削り、この国をより良くしようと本気で戦っておられる。わたくしは——そんなあの方に、心を奪われたのです」
*
「わたくしはこれまで、陰ながらあの方を支えてまいりました。情報をお渡しし、時に侯爵家の力をお借りして。——あの方のお役に立てるように、と」
わたくしは、一息に告げました。
父が知らなかった、わたくしのもう一つの顔。氷の仮面の下に隠してきた——本当の、心。
「氷のバラなどと呼ばれて、誰にも心を開かなかったわたくしが。——初めてお慕いした、御方なのです」
言い終えると、わたくしの目から——また、涙があふれました。
「その御方が今、囚われております。わたくしはどうしても、あの方をお助けしたい。——お父様、どうか、どうか——お力を、お貸しください……!」
わたくしは父の前に、深く——頭を、下げました。
侯爵令嬢の矜持も、氷のバラの仮面も——かなぐり、捨てて。
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しばらく、沈黙が流れました。
父は、何も言いません。
わたくしは頭を下げたまま、父の言葉を——待ちました。
叱られる、かも、しれない。身分違いだと。——侯爵令嬢が——商人ごときに、と。
それでも、わたくしは——引き下がるつもりは、ありませんでした。
「……顔を、上げよ。——クラリスティア」
父の声は、意外にも——穏やかでした。
わたくしがおそるおそる顔を上げると、父は、どこか眩しいものを見るような目で、わたくしを——見つめていました。
*
「お前が——そんな、顔を、する、とはな」
父は、ふっと——表情を、緩めました。
「あの、氷のように澄ましたお前が。一人の男のために、人目もはばからず涙を流す。——侯爵令嬢の矜持すら投げ捨てて、頭を下げる」
父の目に浮かんでいたのは、叱責では——ありませんでした。
それは、むしろ——深い、感慨でした。
「よほどの御方、なのだな。お前の心をそれほどまでに動かした、その——ルキウスという、男は」
「お父様……」
「お前がそこまで惚れ込み、そしてその者が本当に民のために身を削っているというなら。——わしも黙って見過ごすわけには、いくまい」
*
「では……!」
「ああ」
父は、力強く頷きました。
「事情を調べよう。そしてその上で、できる限りの手を尽くす。——オルブライト侯爵家の名に、かけて」
「お父様……! ——ありがとう、ございます……!」
わたくしの目から、今度は——安堵の涙が、あふれました。
父が味方になってくださる。侯爵家の力があれば、きっと——何か、できるはず。
「礼など——よい」
父は優しく、わたくしの肩に——手を、置きました。
「娘の——大切な、人だ。助けるのは——当たり前であろう」
その言葉が、どれほど——わたくしの胸を、温めたことか。
*
「ニコ、と——申したな」
父は、商会の面々に——向き直りました。
「事情はわかった。お前たちも主のためによく動いた。——あとは侯爵家にも、任せるがよい」
「……っ。——ありがとう、ございます! ——侯爵様!」
ニコたちが、深々と——頭を、下げます。
その顔には、わずかな希望の光が——差して、いました。
わたくしは涙を拭い、窓の外を——見上げました。
ルキウス。今、どれほど心細い思いをしておられる、でしょう。
(——どうか——ご無事で)
わたくしは——祈りました。
(——必ずお助けいたします。わたくしも、お父様も、商会の皆様も。あなた様を慕うたくさんの人が——あなた様の、味方なのですから)
氷のバラは、もう——凍っては、いませんでした。
愛する人を救うために、熱く——燃えて、いたのです。




