第100話 王の決意
余は、この国の王で——ある。
だが——名ばかりの、王だ。
千年、この国の玉座は、大神官の傀儡であり続けた。——余もまた、その例に漏れぬ。何を決めるにも大神官の顔色をうかがい——その言うがままに、印を押してきた。
それが——余の人生、だった。
*
その日も、大神官ベルゲンは——余の御前に、参じた。
「陛下。——火急のご相談が、ございます」
その声には、いつもの慇懃さの奥に——隠しきれぬ苛立ちが、にじんでいた。
「アステリア商会の主——ルキウス・フォン・アーデルハイト。あの者のことで——ございます」
(——ルキウス)
その名に、余の心が——わずかに揺れた。
「あの者は、陛下の御意向を無視し——工場を拡大し、民を惑わせ、この国の秩序を——乱しております。もはや——捨て置けませぬ」
ベルゲンの目が、冷たく光った。
「どうか、あの者に——極刑を。処刑をもって、秩序の乱れを——正すべきか、と」
*
処刑。
その言葉が、余の胸を刺した。
いつもの余なら、ただ頷いただろう。「うむ、そうせよ」と——大神官の言葉を、疑いもせず。
だが——今は、違った。
余は、あの者を知っている。
グレイを介して、幾度も言葉を交わしてきた。——あの若者の、まっすぐな志を。民を想う心を。——千年変わらぬこの国を変えようとする、その熱を。
あの者が本当に、ただ秩序を乱すだけの——悪人だと、いうのか。
(——違う)
余の心が——叫んだ。
*
「……ベルゲンよ」
気づくと、余は——口を、開いていた。
「その話、まことで——あろうな」
ベルゲンの眉が、ぴくり、と動いた。
「……は? ——と、申されますと」
「ルキウスが秩序を乱していると、そなたは言う。——だが、余の耳には——あの者が紙を広め、民が文字を学べるようになった、と。そういう話も、届いておる」
余は、続けた。自分でも驚くほど——声が、震えていない。
「民が賢くなること。——それの何が、秩序を乱すこと、なのだ」
*
ベルゲンの顔が、強張った。
「……陛下。——それは、あの者の巧みな口車に——」
「余は、余の考えを——述べておる」
余は、ベルゲンの言葉を遮った。
自分でも、信じられなかった。この余が——千年の傀儡であった余が、大神官の言葉を——遮るなど。
心の臓が、早鐘を打っていた。——恐ろしかった。この男に逆らえば、何をされるか——わからぬ。
だが——それ以上に。
(——もう、逃げたくはない)
あの若者は、たった一人で——この巨大な千年の闇に、立ち向かおうとしている。
ならば、王たる余が、玉座にふんぞり返り——ただ言いなりになって、どうする。
*
「ベルゲンよ。——余は、あの者を——もっと、知りたい」
余は、まっすぐベルゲンを——見据えた。
「処刑など、とんでもない。あの者の申すこと、成してきたこと——余は、この目で確かめたい。その上で——判断、する」
「陛下……っ」
ベルゲンの声に、初めて——焦りが混じった。
「なりませぬ! ——あの者は、危険な——」
「ベルゲン」
余は、静かに、しかし——はっきりと、言った。
「これは——王命、だ」
*
ベルゲンは、言葉を失ったように——余を見ていた。
その目には、驚愕と——隠しきれぬ怒りの色が、浮かんでいた。
千年、意のままに操れたはずの傀儡が——初めて、己の手を振り払った。その衝撃。
「……かしこまり、ました」
ベルゲンは、深々と頭を下げた。——だが、その声は——氷のように、冷たかった。
「陛下の——御心の、ままに」
そう言うと、ベルゲンは——退出していった。
その背中を見送りながら、余は——大きく息をついた。
*
体が、震えていた。——恐怖か、興奮か、それとも——その両方か。
(——やった)
余は、拳を握りしめた。
初めてだ。生まれて初めて、余は——己の意思で、あの男に逆らった。
千年、誰もできなかったこと。——それを、余は——やったのだ。
窓の外には、夕暮れの空。——その茜色が、余の胸を——温かく照らしていた。
(——ルキウス)
余は、心の中で——あの若者に語りかけた。
(——そなたが、余に勇気をくれた。——余はもう、ただの傀儡では——ない。いつか共に、この国を変えよう。——約束、したな)
*
だが——胸の片隅に。——拭いきれぬ、影も——あった。
あの、ベルゲンの氷のような声。——退出する間際の、あの——怒りに燃えた目。
あの男が、この程度のことで——引き下がるはずが、ない。
千年、意のままに操ってきた玉座が——初めて、牙を剥いた。それを、あの男が——どう、受け止めたか。
(——何か、来る)
追い詰められた者ほど、恐ろしいものはない。——余のささやかな勇気が、何か大きなものを——呼び覚ましたのでは、ないか。
そんな不穏な予感が、余の胸を——かすかに、よぎる。
それでも余は、夕暮れの空を見上げ——久しぶりに感じる、自分の心の確かな鼓動を。——静かに、噛みしめていた。




