第98話 飼い犬の鎖
その報せが届いた時、ベルゲンは思わず——手にしていた杯を、取り落とした。
陶器の砕ける音が、大神殿の私室に——響く。
「……失敗、しただと?」
報告に訪れた密偵は、震えながら——頭を、垂れた。
「は。——放った影の者は、戻りません。ルキウス・フォン・アーデルハイトは、無事、王都へ。——それどころか、どうやら影の者は——あの者たちに、捕えられた模様」
*
「おのれ……!」
ベルゲンは、立ち上がった。——皺深い顔が、怒りに——赤黒く、染まる。
あの若造。たかが商人風情が——よりにもよって、放った刺客を、返り討ちにするとは。
だが——怒りよりも、なお。ベルゲンの背を——冷たく撫でるものが、あった。
(——捕えられた、だと)
影の者が生きて、あの者たちの手にある。
もし、あの男が口を割れば——己がルキウス暗殺を命じたことが、露見する。いや——それだけでは、ない。
あの影の者は、長年、己が使ってきた男。——その手は、数えきれぬ血に——塗れている。
——ヴァレンクール。
あの忌まわしい一族を葬った時も——あの男を、使った。
*
(——まずい)
ベルゲンの額に、脂汗が——にじんだ。
もし、あの男が過去のことまで——洗いざらい吐けば。ヴァレンクール公爵家抹殺の、己の関与までもが——白日の下に、晒される。
あの一件は、表向き——ただの事故。馬車の転落。——誰も、疑っていない。それが、覆れば。
長年築いてきた己の地位も、千年の秩序を守るという己の大義も——すべてが、崩れ去る。
「……消さねば、ならぬ」
ベルゲンは、低く——呟いた。
「あの男の口を、永久に——塞がねば」
*
だが——捕えられた影の者は、じきに——王都の衛兵へ、引き渡されるだろう。
牢の奥深く、衛兵に守られた証人を消す。——並の刺客では、できぬ。
ならば——切り札を、使うしかあるまい。
ベルゲンは、側近に——命じた。
「……あの男を、呼べ。——剣聖を」
*
ほどなく、一人の男が——音もなく、私室に現れた。
長身。鋭い眼光。——纏う空気だけで、常人を圧する。この国最強と謳われる、剣の使い手。——剣聖。
「お呼びと、伺いました」
その声は、静かで低い。——感情の読めぬ、声。
「うむ」
ベルゲンは、威厳を取り繕いながら——命じた。
「衛兵のもとに、じきに一人の男が引き渡される。——影で汚れ仕事をしてきた、男だ。その者の口を封じよ。——誰にも、何も語らせるな」
*
剣聖は、すぐには——答えなかった。
その切れ長の目が、わずかに——伏せられる。ほんの一瞬。——何かを堪えるような。あるいは、己の内なる声と戦うような。——そんな陰りが、その横顔を——よぎった。
(——また、この男は)
ベルゲンは、内心——舌打ちした。
この剣聖。腕は申し分ない。——だが、時折こうして——命令に対して、ためらいを見せる。
忠実な犬では、ない。——首輪を嵌められ、鎖で繋がれた——野の獣。
「……どうした」
ベルゲンは、声を——低くした。
「まさか——できぬ、とは——言うまいな」
*
「……いいえ」
剣聖は、静かに——首を、振った。
けれど、その声の底には——隠しきれぬ、苦いものが——沈んでいた。
「ただ、確かめたい。——その者を消すことが、本当に——女神の御心に適うことなのか」
「——口を、慎め」
ベルゲンの声が、鋭くなった。
「女神の御心を語るのは、この、わしだ。——お前では、ない。お前は——ただ、命じられたことを、果たせばよい」
ベルゲンは、一歩踏み出し——剣聖の耳元で、低く囁いた。
「——それとも。お前の大切な、あれを——どうなっても、よいと、申すか」
*
その瞬間。
剣聖の肩が、びくり、と——震えた。
感情の読めなかったその顔に、初めて——明確な色が、浮かぶ。
——屈辱。そして——深い、苦悩。
「……承知、いたしました」
剣聖は、絞り出すように——言った。
「仰せの、通りに」
そう答える声は、どこか——己を殺すような。諦めにも似た響きを——帯びていた。
剣聖は、一礼すると——再び、音もなく——闇に、消えた。
*
残されたベルゲンは、ふん、と——鼻を、鳴らした。
(——扱いにくい男だ)
だが——あれの弱みは、握っている。あの男は、決して——己を、裏切れぬ。
大切なものを人質に取られた犬は——どれほど牙を剥きたくとも。——主の手を噛むことは、できぬ。
「……これで、よい」
ベルゲンは、砕けた杯の破片を——見下ろした。
証人さえ消えれば、あの若造が何を訴えようと——証は、ない。すべては——また、闇の中だ。
(——案ずるな、女神よ)
ベルゲンは、窓の外の夜空を——見上げた。
(——秩序は、このわしが——必ずや、守り抜く。たとえ——この手を、どれほど血に染めようとも)
その瞳の奥には、揺るがぬ狂信と——追い詰められた者の、昏い焦りが。——ない交ぜになって、燃えていた。




