第96話 最小限の、力で
馬車は、崖際の山道を——走っていた。
体は、鉛のように重い。——指一本、動かすのも——やっとだ。
御者に扮した暗殺者は、もう——勝利を確信したように、馬に鞭を入れた。——速度が上がる。崖が、近づく。
(——まずい)
朦朧とする意識の中で、ワタシは——必死に、考えた。
*
力を使えば、この状況——どうとでも、なる。
ワタシの魔力は、毒で体が動かなくても、練り上げることはできる。——風を起こし、馬車を止めることも、崖から逸らすことも。
力が露見する? ——大神官に、警戒される? フィーやメイアに、本当の力を——見せることになる?
(——そんなこと、知るか)
ワタシは——覚悟を、決めた。
仲間が、フィーが、メイアが、今——死にかけている。それを前にして、力を惜しむなど——あって、たまるか。守るために隠してきた力だ。ならば今こそ——使う時、だろう。
たとえ、すべてが露見しても構わない。——みんなを、守れるなら。
ワタシは、残った気力を奥歯に込め——体の奥で眠る力を、呼び起こそうとした。
その、瞬間。
*
「ルキさま!」
その時、メイアが——震える手で、懐から——小さな包みを、取り出した。
「これを……! ——気付けの薬です。一気に毒は抜けませんが——少しの間なら、体が——動くように、なるはず」
メイアは、自分も動かない体を——必死に引きずり、ワタシの口に——その薬を、含ませた。
苦い。——けれど、じわり、と——わずかに、指先に——感覚が、戻ってくる。
「さあ、ルキさま——今のうちに! ——それと、これを……!」
言うが早いか、メイアは——渾身の力で。手にした別の薬の粉を——御者台の男の顔めがけて、投げつけた。
「ぐあっ!? ——な、なんだ……!」
目つぶしだ。——不意を突かれた男が、目を押さえてのけぞる。
馬車が、ぐらりと——揺れた。
(——今だ……!)
*
本当なら、ここで——ありったけの力を、解き放つつもりだった。
けれど、メイアが作ってくれた、この隙。——男がひるみ、馬の制御が緩んだ、この一瞬。——これなら。
(——全部を、出すまでも、ない)
ワタシは、戻ったわずかな力で——ごく小さく、風の魔法を編んだ。
ひゅっ、と——馬車の前方に、逆向きの風が吹きつける。暴走しかけた馬が、その風にたじろぎ——脚を、緩めた。
その隙に、ワタシは最後の力を振り絞り——御者台へと、身を乗り出す。そして、男の手から——手綱を、奪い取った。
逆風で勢いの鈍った馬を、なんとかなだめ——崖の際で、馬車を止めた。
間一髪。——車輪は、崖のほんの数歩手前で——止まっていた。
*
「は……っ。——はあ……っ」
ワタシは、荒い息をつきながら——崩れ落ちた。
わずかに戻った力も、もう——尽きかけている。体は、また——重く、なっていく。
でも、助かった。——なんとか、最悪の事態は——免れた。
「て、てめえ……!」
目を押さえた暗殺者が、よろめきながらも——立ち上がろうとする。まだ、諦めていない。
(——させ、ない)
ワタシは、最後の気力で——もう一度、ごく小さな風を男の足元に起こした。
ひゅっ、と——足を、すくわれて。
「うわっ!?」
暗殺者が、無様に——地面に、転がった。
*
そこへ、同乗していた辺境出身の男たちが——遅れて、飛びかかった。
彼らも、毒で動きは鈍い。——けれど、数で——男を、押さえ込む。
「この、野郎! ——おとなしく、しろ!」
「縄を……! ——縄を、持ってこい!」
数人がかりで、暗殺者を地面に組み伏せる。——男はなおも暴れたが、多勢に無勢。——やがて、観念したように——動きを、止めた。
ワタシたちは、なんとか——暗殺者を捕えることに、成功した。
*
「ルキさま! ——大丈夫、ですか!?」
フィーが、這うように——ワタシに近づいてきた。その目には——涙が、にじんでいる。
「ああ……。——なんとか、ね。——それより、セバスは」
ワタシは、朦朧とする頭で——真っ先に倒れた、あの人を、探した。
「セバスチャンさんなら、こちらに……!」
辺境出身の男の一人が、ぐったりとしたセバスを——馬車の座席に、横たえてくれていた。年老いた体に、毒がいちばん深く回っている。顔色は——青白い。けれど。
「……ご安心を。——息も、脈も、しっかりしています」
メイアが、震える指でセバスの首筋を確かめ——そう、告げてくれた。
「気付けの薬を、飲ませました。——あとは、毒が抜けるのを、待てば。——峠は、越えたかと」
(——よかった)
ワタシは、心の底から——安堵した。
ワタシは、力なく微笑んだ。
体は、まだ動かない。毒は、抜けきっていない。——でも、みんな、命は——拾った。
ワタシは、縄で縛られた暗殺者を——見た。
誰かが、明確な意志を持って——ワタシを、殺そうとした。——馬車の事故に、見せかけて。
(——一体、誰が。——何のために)
その答えは、この男を問い詰めれば——わかる、はずだ。
朦朧とする意識の中で、ワタシは——その男の顔を、じっと——見据えた。
穏やかだった帰り道は、一転——血の匂いのする、戦いの始まりへと——変わっていた。




