第95話 忍び寄る、影
帰り道。——三日目の、ことだった。
その日、昼過ぎに立ち寄った宿場で——思わぬことが、起きた。
「申し訳、ありません。——御者の、ハンスが。どうにも。——腹を、下しまして」
宿の主人が、困ったように言った。
「とても、馬車を出せる状態では。——代わりの御者を、手配いたしましたので——どうか、ご容赦を」
*
「腹を、下した?」
ワタシは、少し引っかかった。
ハンスは、王都からずっと、馬車を引いてくれた男だ。昨日まで——あんなに、元気だったのに。
でも、旅の疲れもあるだろう。——食あたりなど、珍しくもない。
「わかった。——ハンスには。——ゆっくり、休むように、伝えてくれ」
「ありがとう、ございます」
代わりに現れたのは、無口な——目つきの鋭い男、だった。
「……ご案内、します」
それだけ言うと、男は——御者台に、座った。
(——なんだか。——愛想の、ない、人だな)
その時は、ただ——そう思っただけ、だった。
*
馬車は。再び。——走り出した。
新しい御者は、黙々と馬を操る。王都への道を、順調に——進んでいく。
夕方、男が——休憩を取ろうと、言った。
「この先しばらく、宿場がありません。——ここらで、食事を——取っておいた方が」
「ああ。——そうだね。——そうしよう」
男は、手際よく火を起こし、温かいスープと、パンを——用意してくれた。
「気が、利くじゃないか」
ワタシは、少し見直した。——愛想はないが、仕事はできる男のようだ。
ワタシ、フィー、メイア、そして——セバスチャン。みんなで、スープを口に運ぶ。温かくて、少し変わった風味の——スープ、だった。
ふと見ると、メイアだけは、スプーンを手にしたまま、わずかに眉をひそめていた。何か気になることでもあるのか。——けれど、彼女は何も言わず。ほんの少し口をつけただけで——スプーンを、置いた。
(——食が、細いのかな)
その時は——気にも、留めなかった。
*
異変は、その夜から——始まった。
「……あれ?」
ワタシは、体が——妙にだるいことに、気づいた。
手足が、重い。うまく力が入らない。頭も——ぼんやりと、して。
(——疲れ、かな?)
最初は、そう思った。——けれど。
「ルキさま……。——わたし。なんだか。——体が。——変、です」
フィーも、青い顔で——そう、言った。
「手が震えて、うまく——動かなくて……」
(——フィーも?)
ワタシは、はっとした。
見れば——セバスチャンは、もっと、ひどかった。年老いた体には、この異変が、いっそう応えるのだろう。座席に、ぐったりと身を預け——荒い息を、繰り返している。
「坊っちゃま……。——お逃げ、を……」
かすれた声で、それだけ言うのが——精一杯のようだった。
二人同時に、同じ症状。——いや、セバスも。これは、ただの疲れでは——ない。
*
「……みなさん。——少し。——いいですか」
その時。メイアが。——鋭い、声で、言った。
いつもの穏やかな彼女とは、違う。——緊張した、表情。
「症状を、教えてください。——体のだるさ、手足の痺れ、力が入らない。——そういった感じ、ですか」
「あ、ああ。——まさに。——その通りだ」
ワタシが答えると、メイアの顔色が——変わった。
彼女は素早く、残ったスープを手に取った。匂いを嗅ぎ、わずかに口に含んで——すぐに、吐き出す。
そして、確信したように——言った。
「……毒、です」
*
「毒……!?」
「ええ。——間違い、ありません」
メイアの声は、震えていたが——はっきりと、していた。
「この痺れ、だるさ。——体の自由を奪う毒です。——スープに、盛られていた」
(——っ!)
ワタシの背筋が——凍った。
毒。——盛られた。あの、御者に。
「で、でも。——メイアさんは。——平気、なんですか?」
フィーが、震える声で——尋ねた。
「わたし……さっき、口をつけた時に——かすかに、違和感を覚えたんです。ほんのわずかな、苦みのようなもの。——でも、確信が、持てなくて」
メイアの、声に——悔いが、にじんだ。
「ただの香草の風味かもしれない、そう思って——念のため、わたしは控えました。でも、まさか毒だなんて、そこまでは思い至らなくて。——みなさんを止められなかった。——ごめんなさい」
メイアの目が、ワタシたちを——心配そうに、見た。
「……謝ることなんて、ない」
ワタシは、重い口で——なんとか言った。
「メイアが気づいてくれた。——だから今、わかった。それだけで十分だ。——むしろ、よく教えてくれた」
確信のない、かすかな違和感。それを口に出すのは、勇気がいる。責められるいわれは——どこにも、ない。
*
(——そうか)
ワタシは、朦朧とする頭で——考えた。
あの御者。ハンスの急な体調不良。入れ替わった無口な男。気を利かせたふりの——あの、スープ。
すべて。——仕組まれて、いた、んだ。
誰かが、ワタシたちを、いや、ワタシを——狙っている。
(——一体。——誰が)
考えようとしても、頭がうまく回らない。体は、どんどん——重く、なっていく。
その時、御者台の方から——あの男の低い声が、聞こえた。
「……さて。——そろそろ。——効いてきた、頃かな」
*
男が、ゆっくりと——振り返る。
その目は、もう、先ほどまでの、無口な御者のものでは——なかった。
獲物を見据える、冷たい——殺し屋の、目。
「動けまい。——その毒は、体の自由を奪う。じきに——指一本、動かせなくなる」
男は、薄く笑った。
「あとは、この馬車ごと——崖から、落ちてもらうだけだ。——不幸な事故、としてな」
(——崖から……!)
ワタシは、動かない体で——必死に、男を睨んだ。
馬車は、いつの間にか山道に、差しかかっていた。片側は——切り立った、崖。
絶体絶命の状況。その中で、ワタシの意識は——朦朧と、薄れていこうとしていた。
(——まずい。——このままじゃ……!)
ワタシも、フィーも、セバスも——もう、指一本、まともに動かせない。
その時、一人、比較的、毒の回りが遅いメイアが——動いた。




