第93話 思い出を、たどって
帰郷も。——そろそろ、終わりが、近づいた、ある日。
「ルキさま。——あの。——もし、よければ、なんですけど」
フィーが、少しもじもじと——切り出した。
「この、お屋敷の、まわり。——一緒に。歩いて、みません、か? わたしが、昔。——過ごした、場所を。——もう一度。——見て、みたくて」
「いいよ。——もちろん」
ワタシは、微笑んで頷いた。
*
二人で、屋敷の敷地を——ゆっくりと、歩く。
よく晴れた昼下がり。——柔らかな陽射しが、降り注いでいた。
「ここ。——覚えてます」
フィーが、中庭の片隅で——足を、止めた。
「救ってもらったばかりの頃。——わたし、ここでよく——膝を抱えて、座っていたんです」
フィーは、懐かしそうに——その場所を、見つめた。
「あの頃は、まだ——何もかもが、怖くて。人の顔色ばかりうかがって——いつ、またひどい目に遭うんだろうって、びくびく、して」
(——ああ)
ワタシも、覚えている。出会った頃のフィー。怯えた小動物のように、いつも——身を、すくめていた。
*
「でも」
フィーは、顔を上げた。その表情は——明るかった。
「セリアお姉様が、よくここに来てくれたんです。『フィーちゃん、お茶にしましょう』って——お菓子を、持ってきてくれて」
フィーは、くすりと笑った。
「奥様も優しくて。『何も心配いらないのよ』って——頭を、撫でてくださって。レオお兄様は、ぶっきらぼうだけど——こっそり、果物を置いていってくれたり」
(——みんな)
まだ、ワタシたちが、この辺境にいた頃。王都へ移るより、前。家族は——こうして、フィーを——温かく、包んでいてくれたんだ。
「少しずつ、わたし——笑えるように、なりました。ここで、みんなに——優しくして、もらって」
*
歩きながら、フィーは、思い出の場所を、一つひとつ——辿っていった。
「あの木。——レオお兄様が、登り方を教えてくれたんです。わたしが落ちそうになって——こっぴどく、叱られましたけど」
「あはは。——レオ兄さん、らしいな」
「あそこの厨房では、料理人のおばさんが——よく、味見をさせてくれました。——ふふ。つまみ食い、ですね」
楽しそうに語るフィー。その横顔を、ワタシは——隣で、見つめていた。
救われた後の日々を、フィーは——こんなにも大切な宝物として、胸にしまっていたんだ。
*
「ルキさま」
ふと、フィーが——足を、止めた。
「わたし、ここでの日々を——今でも、よく思い出すんです。温かくて、幸せで——わたしの、帰る場所」
フィーは、少し——目を、伏せた。
「でも、不思議なんです。——ここに来る、もっと前のことは——どうしても、思い出せなくて」
(——っ)
ワタシの心臓が——どきり、とした。
フィーの。失われた、記憶。——出自の。——こと。
「どこで生まれて、どんな家族がいたのか。——何も、覚えていないんです。——でも」
フィーは、ふわり、と——微笑んだ。
「今は、それでいいんです。——だって、ここに、ルキさまや、みんながいてくれる。わたしには——それで、十分だから」
*
(——フィー)
ワタシは、言葉に詰まった。
知っている。フィーの、本当の出自。失われた記憶のその先に——あるかもしれない、悲しい真実を。
でも、今は言えない。まだ、確証もない。——それに。
こんなにも穏やかに、「今で十分」と笑うこの子に——どんな顔で、それを告げればいいのか。
(——いつか必ず、伝えなきゃいけない。——でも、今は)
ワタシは、ただ、フィーの隣に、いることしか——できなかった。
「……フィー」
「はい?」
「ワタシは、フィーがここに来てくれて——本当に、よかったと思ってる」
ワタシは、心から——そう、言った。
「フィーが笑ってくれる。——それが、ワタシには——何より、嬉しいんだ」
*
フィーの頬が、ぽっと——赤く、染まった。
「……ルキさまは。——ずるい、です」
「え?」
「また、そういうこと——さらっと、言うんだから」
フィーは、うつむきながら——でも、嬉しそうに、言った。
「わたし、ルキさまに救ってもらって。——ここで、幸せを教えてもらって。そして今は——一緒に、王都で頑張れてる」
フィーは、顔を上げた。その瞳は——まっすぐ、ワタシを見ていた。
「だから今度は、わたしが——ルキさまの力に、なりたい。結界の魔法で、ルキさまを、みんなを、守れるくらい——強く、なりたいんです」
(——ああ)
ワタシの胸が——熱く、なった。
救われた側だった、この子が。今は、「守りたい」と、願っている。そのまっすぐな想いが——眩しかった。
*
「……ありがとう、フィー」
ワタシは、そっと言った。
「でも、無理はしないで。——フィーには、笑っていてほしいから」
「もう。——また、それです、か」
フィーが、頬を膨らませる。けれど、すぐに——ふふ、と笑った。
二人で、顔を見合わせて——笑い合う。
柔らかな陽射しの中、故郷の屋敷の庭で。ワタシたちは——穏やかな時を、過ごした。
この子の過去に、どんな真実があろうと。ワタシは、この子を、守りたい。心から——そう、思う。
その想いが、どんな名前のものなのか。もう、ワタシには——うっすらと、わかり始めていた。——でも。
(——今は。——まだ)
ワタシは、その気持ちに——そっと、蓋をした。
フィーへの想いも、クラリスティアへの想いも、どちらも、大切にしながら。いつか、きちんと——向き合う時が、来る。
今は、ただ——この穏やかな時間を、大切に。
故郷の空は、どこまでも——青く、澄み渡っていた。




