第92話 灯は根を張る
帰郷も、数日が過ぎたある日。
ワタシは、一緒に帰郷してきた——セバスチャンに、呼び止められた。
「ルキウスさま。——少々、お時間を、よろしいですかな」
家令の、セバスチャン。——今回の里帰りにも、供として、付き従ってくれていた。
白髪をきちんと整えた、老いてなお背筋の伸びた人。アーデルハイト家に四十年あまり仕え、今はワタシと共に王都で暮らす——古参の家令。
そして——ワタシの秘密を知る、数少ない協力者の一人。
*
「セバスチャン。——どうか、したの?」
その姿を見て、ワタシは——足を、止めた。
この人には、どれだけ助けられただろう。ワタシの秘密を誰よりも早く見抜き、咎めるどころか、黙って片膝をつき、支えると誓ってくれた人。家族にすら言えぬことを、ただ一人——分かち合ってくれた、恩人だ。
その、いつも冷静なセバスが。——今日は、どこか、そわそわして、見えた。
「ルキウスさま。——せっかく、こうして辺境まで、お戻りになったのです。お発ちになる前に、ぜひ——お見せしたいものが、ございまして」
常になく、弾んだ——その声。ワタシは、少し、意外に思う。
王都に移ってからも、この人だけは、ずっと——故郷に残した、あの人たちのことを、気にかけ続けてくれていた。遠く王都から、手紙をやり取りし、帳簿の上で、さりげなく便宜を図る。——その一つひとつが、どれほど心強かったか。
セバスチャンは、ふと——声を、潜めた。
「『あの方々』が、今どうしておられるか。——きっと、お喜びになるかと」
(——あの方々)
ワタシは、はっと、した。そして。——胸が、締めつけられた。
ずっと、気にかかって、いた。この辺境で、最初に解放した、あの人たち。今、どうしているだろう。幸せに、暮らせているだろうか、と。——王都にいても。ふとした時に、思い出しては。——案じていた。
本当は、帰郷したら、真っ先に会いに行きたかった。けれど——家族の手前、大っぴらには、できない。「昔この地で解放した奴隷たちに会いに行く」——そんなこと、口に出せば。ワタシの秘密の、活動が、露見しかねない。
だから、会いたい気持ちを、ずっと、抑えていた。会いに行けないことを——どこか、申し訳なく、思いながら。
その心を、セバスチャンは、見透かして、いたのだ。だからこそ。——人知れず、こうして。——案内を、申し出てくれた。
(——敵わないな、本当に)
*
セバスチャンに案内されたのは——領地の、外れ。手つかずだった土地を、切り拓いた一帯だ。
かつてワタシがこの辺境にいた頃。最初に解放した人たちは——セバスチャンが見つけてきた、領都外れの、打ち捨てられた鍛冶場を、隠れ家に、していた。
だが、人が増えるにつれ、鍛冶場だけでは、手狭になった。隣り合う納屋や物置に住まいを広げ、それでも足りず——やがて、拠点の奥、森にほど近いこの一帯を、少しずつ——切り拓いて、いったのだ。
ワタシが王都へ発つ頃には——まだ、ほんの、数軒。身を寄せ合うように、暮らしていた。
それが、今。
「……これは」
ワタシは、目の前の光景に——言葉を、失った。
*
そこには、村があった。
いや。——村と呼んでも差し支えないほどの、立派な集落が。
いくつもの家が建ち、畑が広がり、家畜が草を食み——人々が、生き生きと働いていた。
「ルキウスさまが王都へ発たれた、後」
セバスチャンが、穏やかに語る。
「あの方々は、自分たちの力で——さらに土地を拓き、畑を耕し、家を建て。少しずつ人を増やして——こうして、一つの村に、なったのです」
「セバスチャンが、支えてくれたのか」
「いえ。——わたくしは、ほんの少し手を貸しただけ。土地のことで口を利き、帳簿を——少々、調整したくらいのもので」
セバスチャンは、謙遜したが。
(——いや。それが、どれだけ大変なことか)
家族に知られぬよう、遠くからあの人たちを気にかけ、支え続ける。——並大抵の苦労では、なかったはずだ。現地で日々、彼らと汗を流したのは、セバスが見込んで託した——現地の者たち。その者たちと文を交わし、陰から差配し続けたのが、この人なのだ。
*
「あっ……! ——もしかして、ルキウスさま!?」
畑にいた一人の男が、ワタシに気づいて——駆け寄って、きた。
「ルキウスさまだ! ——ルキウスさまが、戻ってこられたぞ!」
その声に、村中の人々が——わっと、集まってきた。
「ああ……! ——本当に、ルキウスさま!」
「お会い、したかった!」
「あなたさまのおかげで、わたしたちは——今、こんなにも、幸せに……!」
口々に感謝を述べる人々。その顔はどれも、日に焼けてたくましく——そして、幸せそうだった。
かつて、鎖につながれ、光を失っていたあの目には。今——確かな、生きる力が、宿っていた。
*
「みんな……。——元気そうで、よかった」
ワタシは、込み上げるものを堪えながら——言った。
「ずっと……気にかかっていたんだ。——みんなが、どうしているか。なかなか、会いに来られなくて。——すまなかった」
本当は、もっと早く、この目で、確かめたかった。けれど、それが叶わなかった。——その悔いも、込めて、頭を下げると。
「何を、おっしゃいます!」
村人たちが、慌てたように——口々に、言った。
「ルキウスさまは、王都で——わたしたちのような者のために、戦っていてくださる。——それだけで、十分です」
「あなたさまが、くださった、この暮らし。——一日だって、忘れたことは、ありません」
その言葉に——ワタシの目頭が、熱くなった。
「立派な村じゃないか。——みんなで、ここまで作り上げたんだね」
「はい! ——全部、ルキウスさまが——わたしたちに、自由をくださった、おかげです」
一人の女性が、涙ながらに——言った。
「あの日、あなたさまがこの首輪を外してくださらなかったら——わたしたちは今も、物のように扱われていた。——でも、今は、違う」
彼女は、自分の畑を——誇らしげに、見渡した。
「自分の土地で、自分のために働いて、家族と笑って暮らせる。——こんな幸せがあるなんて、あの頃は——想像も、できませんでした」
*
ワタシは、村を見回した。
子どもたちが、畑のあぜ道を駆け回っている。女たちが、井戸端で笑いながら洗濯をしている。男たちが、力を合わせて——新しい家の屋根を、葺いている。
どこにも、鎖はない。首輪もない。あるのはただ——自由に生きる人々の、営みだけ。
(——ああ、これだ)
ワタシの胸が、熱くなった。
(——ワタシが、ずっと——見たかったもの)
奴隷から解放された人々が、自分の人生を、自分の足で、歩いている。それは、王都の商会とはまた違う——もう一つの、解放の形だった。
ワタシが蒔いた種は、故郷のこの地でも——確かに根を張り、花を咲かせていた。
*
「ルキウスさま。——どうか、この子を」
一組の、若い夫婦が、おずおずと、進み出た。母親の腕には——小さな、女の子が、抱かれている。まだ、一つか、二つ。——ぷくぷくとした頬の、あどけない子だ。
(——あ)
ワタシは、思い出した。去年、王都に届いた便り。「赤ん坊が生まれた」と。「生まれた娘には、自由を、胸を張って生きていけるよう育てます」と——そう、記されていた。
あの手紙の子が——この子か。
「あの時は、お便りで、お祝いを——いただいて。本当に、ありがとうございました」
父親が、深々と——頭を、下げた。
「この子に、いつか教えてやるんです。お前は、たくさんの人の——優しさの上に、生まれてきたのだ、と」
ワタシは、そっと——その小さな手に、触れた。
きゅっと、ワタシの指を、握り返してくる。温かくて、柔らかい。——確かな、命の、重み。
この子は、生まれた時から、自由だ。鎖を知らない。首輪を知らない。——親が勝ち取った自由の中で、のびのびと——育っていく。
(——これ以上のことが、あるか)
ワタシの目の奥が——熱く、なった。
一人を救う。それは、その人一人の人生だけでは、ない。その人が築く家族、生まれてくる子ども——その、すべての未来を、照らすことなのだ。
*
「ルキさま……」
隣で、フィーが——目に涙を、浮かべていた。
「すごい……。——みんな、こんなに、幸せそう」
フィーも、かつては奴隷だった。だから、この人々の幸せが——誰よりも、胸に染みるのだろう。
一緒に来た、かつて奴隷だった仲間たちも、感極まった様子で——村人たちと、手を取り合っていた。
「おれたちも、あの頃は——同じだった」
「ああ。——でも今は、こんなに——みんな、笑ってる」
かつて同じ苦しみを味わった者同士。言葉は、いらなかった。——ただ、通じ合うものが、あった。
*
その日、ワタシたちは——村人たちと、ささやかな宴を囲んだ。
採れたての野菜。焼きたてのパン。みんなで分け合って食べる、粗末だけれど——心のこもった、ごちそうだった。
笑い声が、絶えなかった。
ワタシは、その輪の中で——しみじみと、幸せを噛みしめていた。
「ルキウスさま」
ふと、セバスチャンが隣に来て——静かに、言った。
「あなたさまが灯した、小さな灯りは。——こうして根を張り、大きく育っております。わたくしは、それを見届けられることが——何よりの、喜びでございます」
その皺深い顔に、穏やかな——満足げな笑みが、浮かんでいた。
*
帰り道。——夕暮れの、空の下。
ワタシは、振り返って——遠ざかる村を、見つめた。
夕日に照らされたその村は——温かな光に、包まれていた。
千年、変わらなかった世界。——その中で、ワタシが灯した、一つの灯り。
その灯りは今、確かに根を張り、広がり——たくさんの人の暮らしを、照らしている。
(——間違ってなかった)
ワタシは——確信した。
ワタシのやってきたことは、決して無駄ではなかった。こうして救われた人々が、幸せに生きている。——それが、何よりの証だ。
王都では、大きな戦いが待ち受けている。——でも、ワタシはもう、迷わない。
守りたいものは、ここにある。この温かな光を、もっと広げるために——ワタシは、戦うんだ。
夕暮れの風が、頬を撫でていく。
その風は、どこまでも——優しく、温かかった。




