9話:公爵家への挨拶
翌朝、約束の十時。
アンターナル公爵邸の前に用意された大型の馬車に、私とライオス様、そしてイブリアス様とリリスティア様が乗り込んだ。
私の隣がいいと言ってくれたリリスティア様と、なぜか空いている向かいではなく、私の隣に座ったライオス様に挟まれた状態で馬車は出発した。
対面の席で1人となったイブリアス様だったが、空いた座席にまで専門書を広げ、むしろ広く使えるスペースに満足げである。
イブリアス様は席に着くなり、昨日黒板に書き殴っていた数式の続きをノートにガリガリと書き始め、完全に自分の世界に入っている。
(……全然、どなたか分からなかったわ)
昨日の浮浪者手前の風貌から一転。今日のイブリアス様は、公爵令息として相応しい出で立ちに生まれ変わっていた。伸び放題でボサボサだった髪は短く切り揃えられ、無精髭も綺麗さっぱり剃られている。さすが公爵家の侍女たちの技術力である。
彼のあまりの変わりように、私がまじまじと見つめてしまっていると――不意に隣から伸びてきたライオス様の手が、私の肩を抱くように引き寄せ、耳元のイヤリングにそっと触れた。
「今日もため息が出るほどすてきだね、クラリッサ。女神が降臨したのかと思ったよ。やはりこの翡翠は、君の美しい肌に飾られて初めて本当の輝きを得る」
「あ、ありがとうございます……。ライオス様も素敵な装いです……」
イヤリングは彼の瞳に合わせて、翡翠を使ったものを侍女が選んでくれた。イヤリングを指先で弄ばれる微かな振動が耳朶に伝わり、落ち着かない。
ライオス様は今日も眩いほどの美を放っている。そんな彼の右耳には、一粒の琥珀をあしらったシンプルなピアスが光っていた。
(琥珀……もしかして私の瞳の色を……?)
私の目の色は、オレンジがかった茶色だ。恋人の髪や瞳の色に合わせたアクセサリーを身につけるのは、貴族社会における定番の親愛の示し方。
(いやいや、変な期待をしてはダメよ、クラリッサ! 今日は公爵様へのご挨拶。家庭教師のための仮初の婚約だとしても、婚約者(仮)の色を取り入れるのは、ただのドレスコードのようなものだわ!)
必死に自分を律しつつも、どうしてもライオス様のピアスに視線が向かってしまう。
そんな私の視線に気づいたライオス様が、妖艶な笑みを浮かべて口を開きかけた、その時。
「ライオスお兄様ばっかり先生を独り占めしてずるいわ!!」
私の腰のあたりに、ギュッとリリスティア様の小さな手が抱きついた。
「リリスはいつも、日中クラリッサを独り占めしてるじゃないか。今日は俺に譲ってくれよ」
「そんなことないわ!お兄様が帰ってくるとすぐに連れて行ってしまうもの!」
私を挟んでわいわいと言い合う兄妹の姿が、なんとも微笑ましい。
そんな二人の賑やかさも全く意に介さず、紙にペンを走らせていたイブリアス様が、ふと顔を上げた。
「なあ、クラリッサ。ここについて君はどう思う……」
「「抜け駆けはだめだ(よ)!!」」
いきなり二人から同時に遮られ、驚いた様子で少したじろいだイブリアス様。三人のご兄弟の仲睦まじいやり取りに、ふふ、と私の口元から自然と笑みが溢れるのだった。
*
「先生は領地のお家には行ったことあるの?」
「私は実は今回が初めてなんです」
「そうなのね!じゃあ着いたら案内してあげるわ!」
「まあ!ありがとうございます」
「でもね、気をつけて。『奥様』はライオスお兄様にイジワルなのよ」
「リリス、余計なことを言うな」
リリスティア様を諌めたライオス様が、横目でイブリアス様を伺う。幸いにも計算に夢中な彼は、こちらの話は聞こえていないようだった。
噂では、現在の公爵夫人――長男ケイラス様と次男イブリアス様の生母であるエレノア夫人は、非常に厳格で、プライドの高い侯爵家の出身の大貴族だと聞いている。
対して、ライオス様とリリスティア様の生母は、男爵家出身の側室だ。
この国では家督を継ぐのは長子が優先されるが、法で定められているわけではない。あらゆる分野で優秀なライオス様を、夫人は激しく警戒しているのだろう。
(リリスティア様の家庭教師として、粗相のないように気をつけないとだわ)
私はいっそう気を引き締めた。
*
馬車が本邸の重厚な門を潜り抜けた。
謁見の間へ通されると、そこには洗練された高級な調度品に囲まれて座る、エレノア公爵夫人の姿があった。銀糸を織り込んだ豪奢なドレスに身を包んだ彼女は、私の緊張を他所に、まずイブリアス様を見てパッと表情を綻ばせた。
「よく帰ったわねイブリアス。なかなか顔を見せてくれなくてお母様は寂しいわ。今はなんの研究をしているのかしら?」
「闇属性におけるマクラがディア発生時のラルタール現象と、属性変換時における抵抗を最小とするためのリカルター理論、および魔力伝達効率の――」
途端に信じられない速度で饒舌になったイブリアス様に、エレノア夫人の口角がピキリと引き攣る。しかし、彼の詠唱は止まらない。
「――です」
「そ、そう……。相変わらず頑張っているみたいね」
完全に引き気味ではあったが、その瞳には確かに息子を愛おしむ「母の顔」があった。
(厳格な方と聞いていたけれど、思ったより優しそうな方かしら……?)
ホッとしたのも束の間。イブリアス様との会話を終えたエレノア夫人は、ゆっくりとこちらを向いた。その瞬間、彼女の紫の瞳が冷徹に変貌し、容赦ない視線で私を一瞥する。
「で、ライオスと……その隣は?」
一瞬で室内を氷点下へと変えるような、鋭く冷たい声。あまりの落差に背筋が凍る。
ライオス様が私の背にそっと手を添え、庇うように一歩前へ出た。
「ご紹介します。ラグドール男爵家の長女、クラリッサです。この度私のプロポーズを受け入れ、結婚する運びとなりました」
「お初にお目にかかります、公爵夫人閣下。ラグドール男爵が娘、クラリッサにございます。お目通りが叶い、身に余る光栄に存じます」
失礼の無いよう、指先まで神経を尖らせて完璧なカーテシーを捧げた。無視されることすら覚悟して、じっと頭を下げる。
(公爵夫人は、私がリリスティア様の家庭教師のために呼ばれていることをご存じなのかしら……? もしご存じなければ、公爵家に石女など相応しくない、と激怒されてもおかしくないわ……)
しかし、予想に反して、返ってきた公爵夫人の声は妙に艶やかで穏やかなものだった。
「ラグドール家の……。そう。おめでとうライオス、クラリッサ嬢。ええ、歓迎するわ。素晴らしい婚姻ね」
先ほどまでの凍て付くような殺気はどこへやら、夫人は満足げに目を細めて微笑んでいる。
(やっぱり! 家庭教師のための仮初の婚約だとご存じなのね!)
だからこそ、体裁を整えるための挨拶だと割り切って、あっさり認めてくれたのだ――そう安堵した私は、続く言葉に完全に凍りついた。
「母親と同じ、卑しい男爵家の女を選ぶなんて……やはり高貴な公爵家の血が混ざろうとも、同族の方が落ち着くのかしら。それとも、社交界で遊び回りすぎて、そんな中古品の石女しか相手をしてくれなくなったのかしらね?」
それはライオス様を明らかに侮辱した嘲笑。
「――クラリッサがこの私を伴侶として受け入れてくれた。それだけで、これ以上ない至上の幸せですよ」
ライオス様は、さらりと、極上の笑みを浮かべて受け流した。
けれど、私の背中に添えられた彼の指先が、信じられないほどの強さで硬直している。完璧な美貌に張り付いたその笑顔は、あまりの美しさに、かえってゾッとするほどの狂気を孕んでいた。両者の冷たい笑顔が、謁見の間の空気を凍り付かせる。
(どうして……?公爵夫人は、私が家庭教師のための仮初の婚約者だとご存知ない……?)
「仮初の婚約です」と一言説明すれば、ライオス様の品位は守られ、夫人からの嘲笑も免れるはずなのに。彼は私を決して切り捨てようとはしなかった。
彼への申し訳なさと、あまりの優しさに胸が潰れそうになる。「私は仮初の婚約者です」と説明しようにも、男爵令嬢の身分でこの場に口を挟む権利などなく、私はただ息を呑んで見守るしかなかった。
「では、夫人への挨拶も済みましたので、そろそろ失礼いたします」
ライオス様は有無を言わせぬ一礼で話を切り上げると、私の腰に手を添え、部屋の出口へと促した。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ、ライオス。貴方が大人しく分を弁えているなら、もう奪ったりしないわ。ぜひ、その欠陥品と仲良く連れ添いなさい。……永遠にね」
背後から投げかけられた夫人の、勝ち誇ったような、呪詛のような言葉。
その瞬間、私の腰を抱くライオス様の手が、骨がきしむほど強く強張った。
(私のせいで、ライオス様がこんな屈辱を……)
横目で盗み見たライオス様は、感情を押し殺すように痛々しく唇を噛み締めていた。その表情を、私はてっきり「悔しさ」だと思い込んでいたけれど。
――本当は、今すぐ夫人に掴み掛かりたいほどの凄まじい『怒り』を必死で堪えていたのだと、当時の私はまだ、知る由もなかった。
公爵夫人エレノアは、ライオスとクラリッサの結婚に前向きです。
子供が産めないクラリッサを正妻にするということは、ライオスが「公爵家の正当な跡継ぎを残せなくなる」ことを意味します。百歩譲って側室を娶るにしても、正妻が男爵家出身である以上、それより身分の高い大貴族の令嬢が嫁いでくることは、プライドが許さずまずあり得ません。
加えて、そもそも男爵令嬢が公爵夫人になること自体が不適格。後継者争いからは実質的な一発退場となるのです。
夫人からすれば、「ライオスが勝手に自爆して、我が子ケイラスかイブリアスの次期公爵の座が確定した!」という願ってもない展開。だからこそ、反対する理由などどこにもないのです。




