8話:次兄の洗礼と抑えきれない独占欲
「なっ……!アレン、どういうことだ。逮捕を延期する、だと……?」
王宮の一角、厳重に遮音された執務室。呼び出されたライオスが主君から告げられた知らせは、耳を疑うものだった。
「もちろん、クルメリオンの罪を有耶無耶にするわけじゃない。ただ……これを見て欲しい」
そう言ってアレン王太子が苦渋の表情で卓上に差し出したのは、王都の地下で流行している禁忌の薬――その密売ルートに関わる顧客や協力者の一覧だった。
書類に目を走らせていたライオスの視線が、ある一行でピタリと止まる。
(まさか……ケイラス兄上……?)
そこに記載されていたのは、長兄ケイラスが裏社会で好んで利用している偽名だった。
「まだ、確定ではない。だが、これがこのまま明るみに出たら、クルメリオン侯爵家だけでなく、我が国を支えるアンターナル公爵家までもが連座で処罰を免れなくなる」
アレンの言葉は、主君としての警告であり、同時に友人としての最大限の配慮だった。
公爵家が裏で薬物の流通に手を貸しているなら、表沙汰になって取り潰される前に、その膿を自らの手で処理しろ――そう言っているのだ。
「……配慮に感謝する、アレン。本当に」
「ああ。だが、あまり長くは待てない。速やかに真実を明かしてくれ」
「……御意」
最大限の礼をして、俺は執務室を後にした。
(ケイラス兄上が……なぜだ。よりによってこのタイミングで……!)
クラリッサを傷つけたクルメリオンを今すぐ地獄に落とせない苛立ちと、実の兄へのどす黒い憤りが、俺の胸の奥で激しく渦巻いていた。
*
一方その頃、アンターナル公爵邸の図書室で、私はリリスティア様との勉強に使う本を選んでいた。
(この辺りがいいかしら。あら……この本は、ライオス様が昔お好きだった本だわ)
背表紙に並ぶ懐かしい本の数々に、自然と頬が緩む。
久しぶりに訪れた公爵邸の図書室は、改めて驚くほどの蔵書の豊かさだった。
(すごい……学園の図書室にも負けないわ!あら、こんな本まで?私が家庭教師をしていた時にはあったかしら……?)
何気なく手に取ったのは、魔法学の専門書だった。
大学部に通っていた頃、熱心に読み込んでいたその本は、希少で高価なだけでなく、内容も大学院レベルのものだ。パラパラと中身をめくれば、瑞々しい学生時代の記憶が鮮明に蘇ってくる。
(私の卒業論文の題材は、魔法理論の基礎研究だったわ。あの頃は、本気で大学院への進学も考えていたのよね……)
特待生としての推薦もいただいていたその道は、クルメリオン侯爵家との結婚によって無残に断たれてしまった。
嫁ぎ先では「役立たずの穀潰しが無駄遣いをするな」と本一冊さえ買い与えられなかったため、久しぶりに触れる高度な知識に、みるみる心が躍っていく。
「その本に興味があるのか?」
「っ!?」
集中しすぎていたため、すぐ背後から声をかけられるまで気づかなかった。
驚いて振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
(だ、誰……!?)
警備の厳しい公爵邸に不審者が入り込むとは思えない。しかし、その風貌は不審者と言っても差し支えないほど凄まじいものだった。
伸び放題のボサボサな赤髪に、手入れのされていない髭。だが、丸メガネの奥から覗く瞳は――ライオス様と同じ、深い知性をたたえた美しい翠色だった。
「魔力循環における最大の注意点は?」
「……え?ええと……異なる属性は相性が悪いので、同一属性での循環が好ましい、です……」
「そうだ。では、他には?」
「光属性であれば、例外としてどの属性とも互換性を持ちます」
「もっとあるだろう。本質を言え」
「……一度、闇属性を経由すると魔力の効率自体は跳ね上がりますが、人体への負荷が大きいため実用的ではありません。ただ、そこを聖属性の触媒で相殺すれば……!」
私は大学で培った知識をフル動員して、男性の矢継ぎ早な質問に答えていった。
なぜいきなり試すようなことを聞かれたのかは分からない。けれど、答えているうちに、私の脳裏にある噂が思い至っていた。
(もしかして……ライオス様のお兄様……?)
アンターナル公爵家には三人のご子息がいる。
長男のケイラス様、次男のイブリアス様、 そして三男のライオス様。
真ん中のお兄様であるイブリアス様は、高等部と大学部をすべて首席かつ飛び級で卒業し、現在は大学院に通っている。公爵家始まって以来の「天才」と名高いが、社交界には一切顔を出さず、研究室に籠もりきりだと聞いたことがあった。
「うん。大体合っている。だが惜しいな、一部の知識が少し古い。……貴女の名前は?」
「も、申し遅れました。私、クラリッサ・ラグドールと申します。現在はリリスティア様の家庭教師を務めさせていただいております」
「私はイブリアス・アンターナルだ。なるほど、リリスの家庭教師か。いい人選だな」
「恐れ入ります」
目の前の不審者一歩手前の男性は、予想通り次男のイブリアス様だった。
「その本、新理論に興味があるのか?」
「はい。僭越ながら、学生時代は魔法理論を専攻しておりましたので」
「魔法理論を?じゃあ、この辺りの論文は読んだか?」
イブリアス様は楽しげに本棚から何冊もの難解な書籍を抜き取ると、私に差し出した。ほとんどは目を通したものだったが、一冊だけ、見たことのない表紙があった。
「これは……まだ拝見したことがありませんわ」
「そうか、昨年発表されたばかりの新理論だからな。よし、解説しよう。この理論を頭に入れた状態の君と、もっと議論がしたい」
そう言うと、イブリアス様は図書室の壁際に据えられた大きな黒板に向かい、チョークを走らせ始めた。いきなり始まった超高等講義に戸惑ったが、彼の圧倒的な知性に引き込まれ、私も気づけば夢中で黒板を見つめていた。
*
「――その可能性は、この第三数式によって完全に否定されている」
「いいえ、否定されているのはあくまでこの結合部分まで。こちらの術式検証については、言及されておりません」
専門書を片手に、黒板の数式を指さしながら堂々と反論した私は、次の瞬間、はっと我に返った。
今まで一秒と待たずに飛んできていたイブリアス様の言葉が、ピタリと止まったからだ。
(しまった……!つい、生意気に指摘してしまったわ……。お気を悪くさせてしまったかしら。……ああ、こういうところが、『口うるさくて可愛げがない』と言われる原因なのよ……)
恐る恐るイブリアス様を見上げると、彼は顎に手を置いたまま、激しく数式を睨みつけていた。
「も、申し訳ございません!出過ぎた真似を……!」
「……いや。その視点は、私の中になかったな。面白い。実に見事だ」
「えっ……?」
イブリアス様はチョークを激しく叩きつけるようにして黒板に新たな数式を書き殴ると、子供のように目を輝かせて振り返った。
「これは『あり』だ……!なぜ今まで気づかなかったんだ!だが、検証には莫大な時間がかかるな。……君、リリスの家庭教師が終わったら、私の研究室に来い。助手をしてくれ。いや、今すぐにでも構わない!」
「ひゃっ……!?」
グイ、と距離を詰められ、その熱量に気圧されて後ずさる。
けれど、その提案は喉から手が出るほど魅力的なものだった。リリスティア様の家庭教師が終われば、自分はまた行き場を失う。そんな自分に、天才と名高いイブリアス様の助手という、この上ない光栄な仕事が提示されたのだ。
「それは――」
「是非、お願いします」と答えようとした私の言葉は、図書室の入口から響いた声にかき消された。
「――離れてください、イブリアス兄上。彼女は俺の婚約者です」
図書室の重厚な扉の前に、いつの間にか、凄まじく不機嫌なオーラを纏ったライオス様が立っていた。
「ライオス様!?申し訳ありません、お帰りをお迎えできず……」
己の不手際でライオス様を怒らせてしまったと、慌てる私を無視し、ライオス様はツカツカと大きな足取りで詰め寄る。
(ああ、お叱りを受けるわ……)
身を縮めた私は、ライオス様の予想外の行動に、一瞬何が起こったか理解できなかった。
ライオス様は私の肩を拒絶を許さない強さでグイと引き寄せると、そのまま深く、額に唇を落とした。
「ただいま、クラリッサ」
「え……?あ、ええと、おかえりなさい……?」
突然の熱い口づけに脳がフリーズする。
ライオス様はそのまま私を壊れ物を守るように抱き寄せた。密着した身体から漂う、甘く危険な香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「婚約者?リリスの家庭教師ではなくてか?」
「ええ。俺の婚約者です。家庭教師は手隙の際に。兄上と言えども、俺の婚約者と二人きりで盛り上がるのは見逃せませんね。研究助手の話は、俺を通してください」
いつもより近く、耳元で響くその声は、どこか獰猛で男性的な気がして、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
「そうだったのか。だが、これほどの優秀な人材が結婚ごときで家に縛られ、埋もれるのは国家的な損失だぞ。よく考えろ。それに、こんな逸材、どこで見つけてきた?なぜこれほどの頭脳を持ちながら、今まで一度も論文を発表していない?」
「クラリッサは昔、俺の家庭教師でした。彼女の優秀さは俺が一番分かっています。埋もれさせるつもりはありません。……今までは、見る目のない無能な男の家に縛られ、日陰に押し込められていました」
「そうか。その男はとびきりの馬鹿だな」
「ええ、本当に」
ライオス様とイブリアス様が頭上で会話を交わす会話は、私の耳には自分の鼓動の音が邪魔をして届かなかった。ライオス様の広い胸にすっぽりと埋もれる形で抱きすくめられ、密着した体温の熱に頭がおかしくなりそうだ。
「そう言えば、なぜ帰ってきたんですか。いつも研究室に引きこもっているくせに」
「実家(本邸)から呼び出しがあった。お前も連れて来い、とのことだ。出発は明日だ」
「明日!?急すぎます。その呼び出しの手紙、いつ届いていたんですか?」
「知らん。昨日くらいに気づいたら机にあった」
平然と言ってのけるイブリアス様に、ライオス様は呆れたようにため息をついた。
「はぁ……まあ、ちょうどいいですね。俺も伴侶を決めたと、正式に挨拶をするつもりでしたし」
「なんだ、まだ言っていなかったのか」
「父上への内諾は取っていますよ。ただ、正式な顔合わせがまだなだけです。……クラリッサ、明日、俺と一緒に領地へ来てくれるかい?」
「は、はい……!もちろんです」
至近距離で覗き込まれ、その恐ろしいほどに端正な顔立ちが目の前に迫る。
(ち……近いわ……!)
ライオス様の腕の中で、私は真っ赤になりながら頷いた。
「よし、明日の出発は十時だ。私は今日、この部屋に泊まる。九時になったら呼びに来てくれ」
「図書室ですよ、ここは」
「雨風を凌げればどこでも同じだ。先ほど彼女が提案した数式を、今すぐ検証したい。……あ、そうだ。これを彼女に」
思い出したように振り返ったイブリアス様は、近くの本棚から専門書を二冊抜き取ると、ライオス様に無理やり押し付け、そのままガリガリと黒板に向かって没頭し始めた。
「さあ、クラリッサ。部屋に戻ろう。どんなドレスを選んだのか、俺だけに教えてほしい」
「俺だけに」。その言葉と連動するように、ライオス様の私を囲い込む手に力がこもった。
あまりの密着度と、彼の色香に、私のキャパシティは完全にオーバーした。
「く、くるし……っ」
「っ!?ご、ごめん!大丈夫かい!?」
ライオス様はハッとした様子で、慌てて手を引っ込め、私は解放される。
早鐘を打つ心臓を何とか抑え、呼吸を整える。耳まで熱をはらんで真っ赤になっていることが鏡を見ずとも分かって、顔を上げられなかった。
「次からは力加減に気をつけるよ……ごめん……」
俯いたままの私を見て、頭上に垂れた耳の幻覚が見えるほどしょげてしまったライオス様に、私は心の中で激しく首を振った。
(ごめんなさい、ライオス様。力加減が強かったわけではないのです。ただ……もう、私には、ライオス様の色香は刺激が強すぎただけで……!)
そんな私の心境など知る由もないライオス様の顔に浮かぶ反省の色に罪悪感を覚えつつ、この胸のうちを明かせるわけもない私は、彼の勘違いをそのまま利用させてもらうことにした。
*
一方、ライオスは、内心の焦りを隠せずにいた。
王宮から公爵邸に戻ると、出迎えた使用人たちの中に愛しい婚約者の姿はなかった。執事長の「イブリアス様が帰られています」という言葉に、嫌な予感がして真っ先に図書室へ向かったのだ。
「私の研究室に来い。助手をしてくれ。今すぐにでも構わない!」
(しまった……!見つかったか!)
開け放たれた図書室から響いた兄の声。その熱烈な勧誘の相手が誰かなど、確認するまでもなく明らかだった。
奇しくも兄の研究分野は、クラリッサが大学で専攻していた分野と同じ。すでに国内最高峰の研究者としての地位を確立しているイブリアス兄上からの提案は、学ぶことを奪われていたクラリッサにとって、どれほど魅力的に響くだろうか。
(ダメだ……!僕の元から離れないでくれ……!)
胸の奥から突き上げる、悲鳴にも似た叫び。それを必死で喉の奥に押し込んで、クラリッサの返事を遮った。
「――離れてください、イブリアス兄上。彼女は俺の婚約者です」
クラリッサのこれからの可能性を思えば、行かせてやった方がいいのかもしれない。……ただ僕には、彼女を他の男の元へ送り出す余裕など、これっぽっちも無かった。
イブリアス兄上は、クラリッサの優秀さを一目で見抜いた。去り際に手渡された二冊の本を見たとき、それは確信に変わった。それはどちらもこの五年以内に発表された論文集。そして彼女の興味を引く分野をピンポイントに射抜いていた。
研究以外に一切の興味を持たないあの兄が、クラリッサを『個』として認識し、興味を持ち始めている。それがライオスには、恐ろしいほどの脅威に映った。
クラリッサの空白の期間すら見抜くその頭脳は、自分がどれだけ努力しても追いつけるものではない、天性のものだ。
愛する彼女のことを、ほんの一部だったとしても、自分と同じくらい――もしくは、それ以上に深く理解した人間が現れたことに、じくりと胸の奥へ、どす黒い独占欲が広がっていく。
――その焦りのせいで、加減を忘れて強く抱きしめてしまった。
「く、くるし……っ」
「っ!?ご、ごめん!大丈夫かい!?」
慌てて手を緩めてクラリッサを覗き込むと、彼女は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。
酸欠によるものだと分かってはいても、薔薇色に上気した頬と、涙を滲ませて一瞬自分を見上げた瞳が、あまりにも、あまりにも愛らしくて……。
クラリッサを窒息させてしまうところだったのに、何を考えているんだという自責の念と、赤くなっている彼女のあまりの愛らしさに翻弄され、ライオスの胸中は激しく乱高下を繰り返すのだった。




