7話:初恋の人(ライオス視点)
カタカタと揺れる馬車のシートに身を沈め、ライオスは自身の顔を覆った。
脳裏に焼き付いて離れないのは、今朝、食堂で微笑んでいた彼女の――クラリッサの、突き放すような満面の笑みだ。
『貴方がどこで誰と何をされても、口を挟みはしませんわ』
胸の奥が、鋭利な刃物で抉られたように血を流している。
違う。違うんだ、クラリッサ。
――僕には貴女しかいないのに。
貴女以外の女なんて、今までただの一度も、本気で好きになったことなどない。
なぜ、彼女の目に自分は「数多の恋人がいる遊び人」として映っているのか。
その最低な仮面を自ら選んで被ったのは、他でもない自分自身だというのに。あまりにも手痛い誤解に、僕は自嘲の笑みを漏らす。
思考は、暗く冷え切っていた僕の世界に、彼女という唯一の光が差し込んだ、十数年前のあの日へと巻き戻っていく。
*
「初めまして。クラリッサ・ラグドールと申します。本日から家庭教師を務めさせていただきます」
そう言って、僕の前に立った少女は、緊張でガチガチに硬くなった笑顔を浮かべていた。
この国では、十三歳までの初等教育は母親が家庭教師を用意する慣わしがある。けれど、男爵家出身の側室である僕の母には優秀な人脈などなく、まともな教育は望めないだろうと諦めていた。しかしまさか、高等部に入学したばかりの少女が来るとは思わなかった。
「初めまして、僕はライオス・アンターナル。六歳です」
先生というより、年上のお姉さんに近い彼女に、お母様から教わった通りの礼を返す。すると、彼女はホッとしたように、ひまわりが咲くようなあどけない笑顔を綻ばせた。
「まあ!ご立派ですね!」
その瞬間に、僕は彼女に心を掴まれたのだと思う。
物心ついた時から、僕は王都の別邸に一人で置かれていた。母は領地のお屋敷にいることが多く、一日のほとんどを孤独に過ごすことが多かった。
そんな僕の元へやってきた「僕だけのお姉さん」。僕が彼女に懐き、執着するようになるのは、当然の結末だった。
クラリッサは、家庭教師として申し分なく優秀だった。
難解な座学も魔法の構築も、僕の目線に合わせて驚くほど分かりやすく教えてくれた。そして、僕が教わったことを少しでも上手くできると、自分のことのように目を輝かせて褒めてくれた。
いったい、母はどこから、この素晴らしい逸材を見つけてきてくれたのだろうか?
学園に通う現役の学生でありながら、彼女は屋敷で一人きりの僕が寂しくないように、自分の時間を削ってまで、できるだけ長く一緒に過ごしてくれた。
……まあ、これには少々、僕の計算もあった。
彼女が「寂しそうな子供」に滅法弱いことを見抜いた僕は、あえて彼女の前で、一人でいる寂しさを健気に演出してみせた。子供の特権をフルに利用して、彼女の服の袖を掴み、ひっついて回る。そうして、彼女とより長くいる時間を手に入れた。
*
数えきれない思い出の中でも、特に鮮明に覚えているのは、初めて魔法で作ったバラを贈った時のことだ。
「先生、見て見て!魔法で作ったんだ!」
「あら素敵……!ライオス坊ちゃまは天才ですね!」
「これ……先生にあげるよ」
「まあ!嬉しい!ありがとうございます、大切にしますね」
そう言って、僕が初めて形にした一輪の赤バラを、彼女は愛おしそうに胸に抱えた。
今思えば、輪郭も歪で不格好極まりない代物だった。けれど、彼女のとびきりの笑顔が嬉しくて、僕は胸を張った。
貴族社会において、男性が女性に「家紋の花」を贈ることは、婚約の申し込み――つまり求婚を意味する。
当時の彼女は、ただ、幼い生徒が作った不器用な贈り物を、優しさで受け取ってくれたに過ぎない。けれど、当時の僕は、これで「先生は僕のお嫁さんになってくれるのだ」と、信じて疑わなかった。
*
彼女は高等部を卒業し、大学部へと進学した。高等部は当然のように首席での卒業だったという。僕の面倒を見ながら、彼女は一体いつ自分の勉強をしていたのだろう。
僕は九歳になった。背は少し伸びたけれど、相変わらず先生の後ろを影のように追っていた。
彼女が褒めてくれるのが嬉しくて、彼女の笑顔が見たくて、彼女のいない間も、僕は血を吐くような思いで魔法の修練を重ね、貪るように本を読んだ。全ては、彼女に追いつくため。彼女に相応しい男になるため。
――そして、さらに数年が経ち、先生が二十歳、僕が十一歳になった頃。
誕生日を迎えた彼女に、僕はまた魔法の薔薇を贈った。
最初に贈ったものとは比べ物にならないほど、大輪を誇るその薔薇を、彼女はさらに洗練された魅力的な笑顔で受け取ってくれた。
――その頃からだ。先生を前にすると、胸の奥が焼き切れるように締め付けられ、上手く言葉が紡げなくなったのは。
彼女の笑顔をずっと見ていたいのに、いざ彼女を目の前にすると、耳の付け根まで熱くなって目も合わせられない。身を焦がすこの熱い衝動が「恋」だと気づくのに、時間はかからなかった。
いつしか、僕の身長は先生の背に追いつき、目線が同じになった。
大人になった彼女に、少しずつ追いつけているような気がして、堪らなく嬉しかった。
けれど、そんな僕の恋心は、思春期特有の制御不能な衝動と絡み合う。
ある日、二人で魔法の練習をしていた時のことだ。
僕が展開した水魔法の防御壁が、魔力の過剰供給によって暴走し、空中で激しく弾けた。
「きゃっ!」
「うわっ……!」
防御する間もなく、僕たちは大量の水を頭から被ってしまった。凄まじい水の質量に押し潰されるように、二人して地面に倒れ込む。
「す、すみません!大丈夫で……つっ!?」
「大丈夫ですよ。ライオス様、お怪我はありませんか?」
地面に膝をついたクラリッサを助け起こそうと、慌てて駆け寄った僕は――その瞬間、全身の血が逆流するような衝撃に打たれ、弾かれたように視線を逸らした。
頭から水を滴らせた彼女の、白いシャツが。
水を吸って肌にぴったりと張り付き、美しい身体の曲線を、生々しいほど鮮烈に引き立てていた。それだけじゃない。薄い生地の向こう側、透けた胸元には……下着のレースの線が浮かび上がっていた。
「本当に、びっくりしましたね……」
何も気づいていない彼女が、額に張り付いた濡れた髪を払う。その何気ない仕草さえ、息を呑むほど色っぽくて、心臓が爆発しそうだった。
服と髪は、魔法ですぐに乾いたけれど、僕の脳裏には、水を滴らせた彼女の艶めかしい姿が、焼き付いて離れなかった。
それからというもの、寝ても覚めても、クラリッサの、あの瑞々しい曲線や、透けた肌のことばかり考えてしまう。自分は何か病にでもかかったのではないかと、本気で医者に診てもらおうか悩むほど、僕の脳内は常にクラリッサのことでいっぱいだった。
だが、そんな僕の甘い熱病を、人生最大の絶望が叩き潰す。
*
「け……っこん……?」
「はい。先日、クルメリオン侯爵家との婚約が決まりまして。なので、この邸に伺えるのも、残り僅かになります。ちょうどライオス様も十三歳になられますし、お役御免のタイミングとしてはぴったりでしたね」
寂しそうに、けれどどこか諦めたように微笑む彼女の左手の薬指には、僕の作った魔法の薔薇なんかより、何百倍も高価な、冷たくて大きな宝石の指輪が光っていた。
頭を金槌で殴られたようだった。
漠然と、僕は大人になったら彼女と結婚するものだと信じていた。僕は三男だけれど公爵家の血筋だ。彼女は男爵令嬢。僕が強く望みさえすれば、叶わない身分差ではない。男爵家の格では公爵家の第一夫人としては不足だが、爵位を継がない三男の妻としてなら、何の問題もないはずだった。
(どうして……?薔薇を受け取ってくれたのに。僕じゃ、ダメだったのか……!?)
次こそは完璧なものを渡そうと、彼女の卒業祝いに向けて夜通し練習していた「本物の生花と見紛うほどの完璧な魔法の薔薇」は、ついに彼女に披露されることはなかった。
クラリッサを失った僕の世界は、一瞬にして色を失った。
彼女は結婚の準備に追われ、僕の元を訪れる回数は激減した。
あんなに必死に取り組んでいた勉学も、血をにじませた魔法の修練も、もうどうでも良かった。ただ、彼女に褒めて欲しかっただけ。その相手がいないのであれば、何の意味もない。
そして、何より僕を激しい怒りと絶望で打ちのめしたのは、彼女が嫁ぐ先での立場が、正妻ではなく『第二夫人(側室)』だということだった。
嫁ぎ先のクルメリオン侯爵、イースターという男は、学園首席の彼女の頭脳を、自家の領地経営の道具として利用するために娶るのだと、風の噂で知った。
「僕にとっては、何にも代えられない『一番』のひとなのに……っ!」
側室として都合よくこき使うくらいなら、なにも結婚しなくてもいいじゃないか。僕から彼女を奪わないでくれ。
何とかしてあの婚約を白紙にできないか、僕はプライドを捨てて何度も父に縋り、掛け合った。けれど、この国で法的に婚約・婚姻を主導できるのは十五歳から。当時、わずか十三歳だった無力な三男坊の子供に、できることはなかった。
*
人生で初めて見たウェディングドレスは、初恋の人が着ていた。
「よく伴侶に仕え、支えることを誓いますか?」
「誓います」
純白で汚れを知らないドレスに身を包み、大聖堂の祭壇で微笑む彼女が瞳に映すのは、僕ではない。
誓いの言葉が響き、大聖堂が祝福の拍手に包まれる中、ただ血が出るほどに拳を握り締め、奥歯を噛み締めて立っていること。それが、十三歳の僕にできる、精一杯の拒絶であり、抵抗だった。
*
彼女が去り、灰色になった世界で、ただ植物のように息だけをしていた僕が十四歳になったある日。父から領地の執務室へと呼び出された。
「お前ももう十四だ。そろそろ、我がアンターナル公爵家の一員として働いてもらう」
父から提示された役割は、母親譲りの端整な甘い容姿を利用して女性たちを誑し込み、情報を引き出すというものだった。
当然、そんな役割を引き受ければ、社交界での評判は「軽薄な遊び人」としてドブに捨てることになる。まともな令嬢との婚姻など、今後一生望めなくなるだろう。
(でももう、そんなことはどうでもいいんだ)
彼女でないなら、誰でも同じだ。
何より、僕を支配したのは、あの結婚式の日に味わった「無力さ」への、狂わんばかりの憎悪だった。
情報がなければ、力がなければ、僕はまた、大切なものを目の前で毟り取られて指をくわえて見ているだけの子供で終わる。
――二度と、あんな惨めな思いはしない。
もし今後、なにかを望んだ時、それを実現できるだけの「圧倒的な力」が欲しい。そのためなら、この身が汚れることなど構わない。
「分かりました。……俺の役目を、果たします」
俺はその日、子供の僕を殺した。
そうして、全ての情報を我が手中に収めるため、「社交界の貴公子」という、最低で完璧な仮面を被ることを決めた。
*
「……間もなく王宮へ到着いたします」
御者の声に、俺はふっと意識を現在へと引き戻した。
窓の外には、見慣れた王宮の白亜の尖塔が迫っている。
「さて、どうやって調理しようか」
俺の大切な人を奪っただけでなく、冷遇して傷つけた罪を、悪事を行った罰とともに清算させる。
馬車の扉が開く。一歩外へ踏み出した俺の顔から、ただ指をくわえてクラリッサを見送った頃の情けない弱さは消え失せていた。
そこに浮かぶのは、公爵家、ひいては国家の諜報員としての冷徹な顔だった。




