5話:挨拶代わりの甘いセリフは心臓に悪いです
眩い朝の光が、メッシーナ製の豪奢な天蓋付きベッドに差し込み、私は目を覚ました。
クルメリオン侯爵家の離宮では、いつも冷え切った床の寒さで無理やり起こされていたけれど、この部屋の温度は完璧に保たれている。
(本当に美術館に泊まってしまったような緊張感だったわ……)
国宝級の家具を傷つけまいと、寝返りすら最小限に抑えていたため、妙に体が強張っている。
私がベッドから起き上がると、完璧なタイミングでノックが響き、侍女たちが朝の支度に現れた。
「すぐに仕立て屋がやって参りますので、まずは軽めに仕上げますわね」
テキパキと身なりを整えられ、薄手のガウン姿になる。
すると間もなく、昨晩ライオス様が手配してくれたという仕立て屋の女性たちが、大きな姿見や採寸用の道具を抱えて入ってきた。
「おはようございます、クラリッサ様!ライオス様より、貴女様に最高の衣装を仕立てるよう仰せつかっております!」
「あ、ありがとうございます……」
彼女たちは私の体をプロの手際で採寸しながら、「なんと素晴らしいプロポーション」「仕立て甲斐がありますわ!」と大盛り上がりだ。前夫からは「可愛げのない欠陥品」「女としての魅力に乏しい」と言われ続けていたので、お世辞だと分かっていても少し耳が熱くなる。
「仕立て品が完成するまでは、クローゼットのドレスをお召しになると伺っております。どちらになさいますか?」
採寸が終わった私に、侍女が何着かドレスを薦めてくれた。
「そちらの、ミントグリーンのものをお願いします」
侍女の手によって広げられたのは、昨日ライオス様と着用を約束した、あの美しいドレスだった。
胸元から腰にかけてあしらわれた白銀の刺繍が、朝の光を浴びてキラキラと輝いている。
「さあ、クラリッサ様。本日のお姿、ライオス様も大変楽しみにされておりますよ!」
手際よくドレスを着せ替えられ、髪も品よくアップにまとめられる。
鏡の中に映った自分を見て、私は思わず息を呑んだ。
(……可愛い!けれど、やっぱり私には可愛らしすぎるんじゃないかしら。二十七歳のバツイチが着るには、少々華やかすぎるというか……)
そわそわしながら、広がるミントグリーンの裾を指先で摘んでいると、再び部屋の扉がノックされた。
「クラリッサ、入ってもいいかい?」
弾むような、けれどどこか緊張を孕んだ低い声。
侍女たちが扉を開けると、そこには、すでに完璧に身嗜みを整えたライオス様が立っていた。
上質な白いシャツに、深い緑のベスト。相変わらず、ただ立っているだけで絵画のような美貌だ。
「おはよう、クラリッサ。夕べはよく眠れた――」
挨拶を言いかけたライオス様が、私を見た瞬間、ピタリと動きを止めた。
その翠色の瞳が大きく見開かれ、じっと私を凝視する。あまりの凝視ぶりに、私は一気に不安になってしまった。
(あ、やっぱり似合ってないんだわ!そうよね、本来はもっと若いご令嬢へのプレゼント用だもの。いくらライオス様と約束したからって、年増の私が浮かれて着るようなものでは……)
「あの、ライオス様……。やっぱり、私にはこのデザインは若すぎますよね。すぐに着替えますので――」
「違う!!」
ライオス様が、悲鳴のような大声を上げた。
驚いて肩を跳ね上げる私に、彼は慌てたように大股で歩み寄ってくる。
「違うんだ、クラリッサ。着替えないでくれ。あまりにも……あまりにも綺麗すぎて、言葉を失っていただけなんだ」
「え……?」
「本当に、よく似合っている。……まるで、僕のために咲いてくれた妖精のようだ」
彼は私の手を取ると、熱っぽい視線を真っ直ぐにぶつけてきた。その美しい顔が近づき、耳が熱くなる。
(妖精って……!朝からなんて冗談をおっしゃるの、この貴公子は!)
さすがは数多の女性を虜にしてきた遊び人。朝の挨拶代わりに、こんな恥ずかしい台詞をサラッと言えてしまうのだから恐ろしい。彼にとっては、おはようと言うのと同じくらい「呼吸のようなセリフ」なのだろう。
「ありがとうございます、ライオス様。お世辞でもそう言っていただけるなんて、光栄ですわ。さすがは社交界の貴公子ですわね」
「……その呼び名を知っていたのですか」
ライオス様が一瞬、後ろめたそうに顔を曇らせた。
「ええ。あ、咎めている訳ではありませんわ。私はリリスティア様の家庭教師として保護してくださったのですよね?貴方がどこで誰と何をされていても、口を挟みはしませんわ」
私が満面の笑みで「自分の役割」を弁えていることをアピールすると、ライオス様はなぜか、見たこともないほど複雑な表情で硬直してしまった。その端整な顔が、どこか絶望に歪んでいるようにも見える。
「クラリッサ……。僕は、貴女だけをずっと……」
「ライオスお兄様!クラリッサ先生!お二人とも朝ごはんですよ!」
ライオス様が何かを必死に弁明しようとした瞬間、リリスティア様がパタパタと部屋に駆け込んできた。
「わあ……!先生、とっても可愛い!お兄様の目と同じ色ね!」
「まあ、本当ですね。リリスティア様、おはようございます」
可愛い天使の登場に救われ、私はホッと胸を撫で下ろした。
ライオス様は言いかけた言葉を飲み込んで、片手で顔を覆ってガックリと項垂れている。
「さあ、ライオス様、リリスティア様。朝食へ行きましょう。今日から、家庭教師としての義務をしっかり果たさなくてはなりませんものね!」
私は気合を入れ直し、二人と共に廊下へと歩き出した。
*
一方、二人の後ろを歩くライオスは、悲しみと怒りと己の不甲斐なさで、爆発寸前だった。
(ああ、クラリッサにまであの不名誉な呼び名を知られていたなんて……!)
彼女が別の男のもとへ嫁いでしまったあの日から、絶望した俺は公爵家の「裏の仕事」――すなわち諜報員として、女性相手に情報を聞き出す役割を引き受けていた。社交界の貴公子だの遊び人だのという噂は、全てが嘘ではないが、任務のため都合が良かったので特に訂正もしないで放置していた。
本当は、自分の瞳と同じミントグリーンに染まったクラリッサを見て、嬉しさのあまりその場で抱きしめて腕の中に閉じ込めてしまいたかった。永遠に。なのに、まさかの「軽い男の戯言」として鉄壁のガードでスルーされるとは夢にも思わなかった。
(……まあいい。皮肉にも、その諜報網のおかげでクラリッサの離婚を最速で察知し、こうして取り戻すことができたのだから)
それに、クラリッサがあの家から完全に離れた今、もう何の容赦もいらない。
(待っていろよ、クルメリオン侯爵家。クラリッサを奪っただけでなく、悪事も手を染めていることは把握済みだ。罪の清算をすぐにさせてやる)
前を歩く愛しいクラリッサの、可憐に揺れるミントグリーンの背中を見つめながら、ライオスは、その美貌に冷酷な黒い笑みを浮かべるのだった。




