4話:完璧な遊び人のVIP待遇は、元家庭教師には刺激が強すぎます
「でね!ここが先生のお部屋よ!」
「ここが……?」
リリスティア様に手を引かれ、最後に案内されたのは、主棟の最上階に位置する一際豪華な部屋だった。
天井には繊細なクリスタルのシャンデリアが輝き、並んだ調度品はどれも一目で国宝級だと分かる極上の作り。さらに開け放たれたクローゼットには、まるで夜会でも開くのかと思うほど色鮮やかなドレスが何着も並んでいる。
(こんな部屋、昔の公爵邸にあったかしら……?)
家庭教師として通っていた頃には見たこともない、あまりにも浮世離れした贅沢な空間に呆然としていると、背後から低く、心地よく鼓膜を揺らす声が響いた。
「リリス。この部屋は、俺が最初に案内したかったんだけどな」
「ライオスお兄様!?今日は随分と早いお帰りね!」
「こ、こら……」
振り返ると、そこには仕立ての良い外套を脱ぎ捨て、薄手のシャツ姿になったライオス様が立っていた。
はっとしたように「しまった」という顔で私を見るその表情は、かつて宿題をサボったことがバレた時の、あの愛らしい教え子の面影を残している。
けれど、はだけた襟元から覗く逞しい鎖骨や、細められた翠色の瞳から放たれる圧倒的な色香は、完全に大人の男のそれだった。
(大丈夫よ、ライオス様。私はただの、臨時の家庭教師。あなたがどんなに朝帰りをしようが、夜遊びにうつつを抜かそうが、咎める権利なんてこれっぽっちもないわ)
私は自分の立場を十分に弁えていることを示すため、穏やかに微笑んでみせた。
「おかえりなさいませ、ライオス様」
「……ただいま」
彼はほんの少しだけ耳の付け根を赤くし、視線を斜め下に逸らして答えた。
その仕草すらも、まるで計算されたかのように絵になる。
「さあ、ちょうど夕食の時間です。下の広間に行きましょう。クラリッサ先生、この部屋の案内は、夕食が終わったら僕がしますからね」
ライオス様は流れるような足取りで部屋の入り口側に回り込むと、有無を言わせぬ優雅さで、後ろ手でそっと扉を閉めてしまった。
「今日はお兄様も先生もいて、とっても楽しい夕飯ね!」
「ああ、そうだね……。ごめんな、リリス……」
リリスティア様の弾んだ無邪気な声に反して、ライオス様が落とした微かな呟きは、ひどく切なげに私の耳にだけ届いた。
*
(どうして……?あれも、これも……私の大好きなものばかりだわ……!)
食堂に運ばれてきた料理の数々を目にした私は、内心で激しい動揺を突き動かされていた。
前菜のサーモンのカルパッチョ、じっくりと煮込まれたコンソメスープ、絶妙な火入れの肉料理――次々と銀の蓋が開けられるたびに、私の好物がピンポイントで卓上を彩っていく。
「お口に合いますか、クラリッサ先生」
テーブルの向こう側から、ライオス様が頬杖をつきながら熱っぽい視線を投げかけてくる。ただ見つめられているだけなのに、彼の翠色の瞳に射すくめられると、まるで極上のワインに酔わされているような錯覚に陥る。
「はい……!どれも本当に美味しくて、私の好きなものばかりです……!」
その言葉を聞いた瞬間、ライオス様は酷く満足げに、そして酷く艶っぽく微笑んだ。
そして、極め付けはデザートとして運ばれてきた、黄金色に輝くフルーツだった。
「これは……!?マンゴー!?今は全く旬ではないのに、どうして……!?」
「もちろん、貴女のために用意しました。君の喜ぶ顔が見たかったんだ」
「あ、ありがとうございます……!」
(旬を外れた異国の果物なんて、一体どれだけの費用と人手をかければ手に入るのかしら……。これは確かに、世のご令嬢たちが一瞬で恋に落ちるのも納得の最高級ファンサービスだわ!)
自分のために、誰かがこれほどの手間と情熱を注いでくれるなんて、果たして何年振りのことだろう。
冷たくなった前の日の残り物を、カビの生えかけた離宮で独り啜っていた昨日までからは、到底想像もつかない。胸の奥がじんわりと温かい心遣いで満たされていくと同時に、彼の手練手管に対する警戒心がピリリと作動した。
至福の夕食が終わると、リリスティア様は就寝の準備ということで、侍女に伴われて別棟の子供部屋へと戻られることになった。
「では、クラリッサ先生。改めて貴女のお部屋を案内します」
妹君の退室を見届けたライオス様が完璧なタイミングで立ち上がる。彼は優雅な足取りで私の隣へ歩み寄ると、流れるような無駄のない動作で私の右手を取り、そっと椅子を引いた。
指先同士が触れ合った瞬間、彼の熱い体温が伝わってきて、心臓が跳ねる。
(こんなにスマートに女性をリードできるようになるなんて……。本当に、立派になって……!)
当たり前のようにエスコートの姿勢を取る彼の姿に、私はただただ感心するしかなかった。
「少しリリスに先を越されてしまいましたが……。こちらが、貴女のために用意した部屋です」
彼が再び扉を開けたのは、先ほどのあの一際豪華な部屋だった。
改めて見回すと、やはり場違いなほどの高級感が漂っている。
「ここが、本当に私の部屋……?」
「ええ。お気に召しませんか……?」
あまりの畏れ多さに思わず心の声が漏れ出ていたようで、ライオス様に優しく言葉を拾われてしまった。彼は少しだけ眉を下げ、まるで捨てられた仔犬のような、庇護欲をそそる眼差しで私を見つめてくる。そのギャップが、ずるいほどに色っぽい。
「と、とんでもありません!こんな素敵な部屋、私にはとても……!私は家庭教師をしていた頃の、あの控室くらいで十分ですわ」
「そんな場所、先生には相応しくない。これでもまだ足りないくらいです。……どうか僕を、あの元夫以下の男にしないでください」
低く、どこかドスの利いた甘い声。
一瞬、彼の瞳の奥に昏い炎が揺らめいた気がして息を呑む。
(ああ、そうね。実態は臨時の家庭教師だとしても、建前上は『公爵令息の婚約者』だもの。私をみすぼらしい部屋に閉じ込めておいたら、周囲からライオス様の甲斐性を疑われてしまうわ。これは公爵家にとっては、最低限の品位を保つためのものなのね)
妙に納得した私は、彼の導くままに、大人しく中央のソファーへと腰掛けた。
しかし、何気なく触れたソファーのアームレストに刻まれた繊細な紋様にふと目が留まり、私はガタガタと震え出した。
「こ、こ、これは……っ。メッシーナの刻印!?まさか……!?」
「おや、気づいてくれましたか」
ライオス様は嬉しそうに目を細めた。
メッシーナ。それは私が昔からずっと憧れていた、伝説的な高級家具ブランドだ。到底手の届かない価格設定と、厳格な完全紹介制のせいで、王族や上級貴族しか購入を許されない雲の上の存在。
そういえば、私が前夫と結婚する際、アンターナル公爵家から祝いの品としてここの椅子を一脚いただいたことがあった。……まあ、私が少し目を離した隙に、元夫から「帳簿の計算を間違えた罰」として速攻で質に入れられてしまったのだが。今となっては終わった話である。
「もしかして……このライティングデスクもですか!?」
「そうです。せっかくだから、他にも見て回ろうか」
彼は再び私の手を取ると、部屋の中だというのに、恭しくエスコートをして歩き出した。一歩進むたびに、彼の纏う洗練された大人の香水の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
「あのタンスは……シルベール領の伝統的な漆塗り!? そちらのカップボードは歴史的なアンティークもので……な、なかのグラスは、ローゼンラーク公爵家お抱えの職人ガガラの作品!?」
「さすがは僕の先生だ。確かな審美眼を持っている。そんな風に分かってもらえると、苦労して揃えた甲斐があるよ」
嬉しそうに微笑むライオス様とは裏腹に、私の心は嬉しさを通り越して、純粋な戦慄へと変わっていた。
(……これ、部屋じゃないわ。美術館よ。もし、万が一にでも傷をつけたり壊したりしてしまったら……天文学的な賠償金が発生するわ……!)
リリスティア様の家庭教師のお役目が終わり、この「婚約」という名の保護期間が終了して離縁となる際、もしグラスの一つでも割っていたら。私は一生タダ働きしても返しきれない負債を背負うことになる。
(決めたわ。この部屋の家具には、極力触れないように生きましょう……!)
憧れの家具たちだが、見るだけでも十分だ。私は一挙手一投足を限界まで緊張させ、この部屋でサバイバルする覚悟を固めた。
最後に、クローゼットに敷き詰められたドレスの前に到着する。
「仕立て屋は明朝一番に呼ばせてあるけれど、仕立て品が出来上がるまではとりあえず、この中から好みのものを選んでもらえますか?」
「こ、これ、全て私用、ですか……?」
「もちろんです。貴女に似合いそうなものを僕が直々に集めました」
(私に……?)
しかし、並んでいるドレスは、淡いパステルカラーや優しいアースカラーが多く、ふわりと広がった可憐なデザインばかりだ。全体的に、二十代前半の若き令嬢が着るようなラインナップに見える。二十七歳でバツイチの私が着るには、少々可愛らしすぎる気がした。
(なるほど……。遊び人のライオス様が、ご令嬢たちのために、あらかじめストックして用意しておいたものかしら。それを、急に転がり込んできた私に『とりあえず』と貸し出してくれたのだわ。さすがは手慣れていらっしゃる!)
そんな私の勘繰りを余所に、ライオス様は楽しげにドレスを指先で滑らせていく。
「これも、こちらも着てみてほしいな。靴はあちらのローヒールを合わせて……。ねえ、クラリッサ先生」
彼が何着か見繕った中の、一着のドレスに私の目が釘付けになった。
「これ……」
「こちらが気に入りましたか?」
それは、目を見張るほど美しい、ミントグリーンのドレスだった。胸元から腰のラインにかけて、繊細な白銀のレース刺繍が施されている。
「着てみてもらえませんか。……僕の選んだドレスに身を包んだ貴女を、一刻も早くこの目で確かめたい」
ライオス様は、囁くような低い声で強請ってきた。
「い、今ですか!?」
「僕がお手伝いしましょうか?」
そのまま、私を抱き寄せるようにして、大きな手が背中の――ドレスのフックが並ぶ場所にそっと回される。彼の厚い胸板が至近距離まで迫り、完全に退路を断たれた。触れそうなほど近い彼の吐息が耳元にかかるたびに、背筋に痺れるような甘い電流が走る。
「明日!明日絶対に着用しますから、今夜は勘弁してください……!」
私が両手で彼の頑丈な胸をグイグイと押し返すと、ライオス様は「ふふ、残念だな」と、パッと名残惜しそうに手を離した。
(さ、さすがは社交界のトップランナー……!一挙一動が刺激的すぎるわ……!危うく元教え子を男性として意識してしまうところだったわ、危ない危ない……!)
心臓の爆音を必死に隠しながら、私は再び中央のソファーへと導かれて腰掛けた。驚くほど自然な動作で、ライオス様が私のすぐ隣に滑り込んでくる。当然のように、エスコートのために取られた右手は、彼の大きな手のひらに重ねられたままだ。
「クラリッサ先生……。今日からは、クラリッサ、と呼んでもいいですか?」
「もちろんですわ。それに、私にそんな丁寧な言葉を使う必要もありません。私はもう、あなたの家庭教師ではないのですから……」
「そうだね。――クラリッサは、僕の婚約者だ」
ふっと、彼の口調から余計な飾りが消えた。
ライオス様は私の手を持ち上げると、白い素肌が覗く手首の、脈打つ部分へ熱い唇を落とした。あまりの艶っぽさに、頭の芯がじんわりと痺れそうになる。
「今日は移動で疲れただろう。無理をせずゆっくり休んで。明日、また一番に君の顔を見に来るから」
彼はそう言って使用人を呼ぶベルを鳴らすと、立ち上がり際、ソファーに座った私に覆いかぶさるようにして、今度は私の頬へ優しくキスを落とした。
「おやすみ。いい夢を、僕のクラリッサ」
至近距離で響いた破壊的な低音と、色香に満ちた翠の眼差し。
「お、おやすみなさいませ……!」
私はその圧倒的な魅力に気圧されながら、なんとかそれだけの言葉を絞り出した。
バタン、と重厚な扉が閉まった瞬間、私はソファーに崩れ落ち、真っ赤に火照った顔を両手で覆った。
(落ち着きなさい、クラリッサ!彼にとっては、挨拶代わりの軽いスキンシップよ。何人の女性に同じことをしてきたと思っているの!……でも、このままじゃ、彼を好きにならずにいられる自信が、ないわ……)
キスを落とされた手首と頬が、いつまでも火傷のように熱かった。
*
一方、部屋の外。
重厚な木製の扉が完全に閉まった瞬間、ライオスは完璧な貴公子の仮面をかなぐり捨て、壁に突っ伏した。
「なんだよ今の!!!ドレスの着替えを手伝うって……!そんなこと、一度もしたことないだろ!!!」
彼は前髪をくしゃくしゃにかきむしり、心臓の爆音を静めるように何度も深呼吸を繰り返す。
「先生が、僕の瞳の色のドレスを選んでくれたから、嬉しくてどうにかなりそうだった……。流石に引かれてないかな……!?」
世間では遊び人の称号をほしいままにしている彼も、初恋の人を前にしてはただの思春期の青年だった。
「とにかく、早く仕立て屋にドレスを仕立てて貰わないと。先生には頭から爪先まで、僕の贈ったものだけで満たされてほしい。……それに、もう先生じゃない。…………クラリッサ……」
愛しい人の名前を声に出しただけで、自然と口角が上がってしまう。ずっと、何年も呼びたくて堪らなかったその名前を、世界で一番の宝物を抱きしめるように、何度も何度も噛み締めた。
部屋の中で「絶対に勘違いしてはダメ」と、自分を律しているクラリッサ。
そのすぐ外で、「二度と誰にも渡さない。自分の全てをかけて愛してみせる」と、狂わんばかりの純愛を誓う年下の婚約者。
二人の甘く、そしてちょっぴりすれ違った共同生活が、今、静かに幕を開けた。
――――――――――――――あとがき
タンスはジーク、食器はアレンに協力してもらってそれぞれ揃えています。
マンゴーは輸入が必要かつ、今は旬ではなく貴重。そして日持ちしないので、必要な日に合わせて何日も前から手配しないと届かないのですが……妙ですね?笑
ドレスのデザインですが、大人っぽいものは背中がざっくり空いていたりするので、「こんなものはクラリッサ先生に着せられない……!」ということで、年齢層が若干若めなラインナップになりました。




