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21話:繋ぎ止めた婚約

 観劇が終わり、劇場を出ると外はすっかり日が落ちていた。

 夜の王都を走り出した馬車の中、どこか恐る恐るといった様子でライオス様が口を開いた。

 

「今日は……、その、楽しんでくれたかな……?」

 

 いつもの完璧で余裕に満ちた貴公子ぶりは少し影を潜め、どこか不安げにこちらの顔色を伺うその表情は、彼がまだ十八歳の青年であったことを思い起こさせた。

 

「はい!ライオス様、本日は本当にありがとうございました!今までで一番素敵な、一生忘れられない一日になりました」

 

 今日は間違いなく、私の人生の中で一番、大切に扱ってもらえた日だ。胸の奥から込み上げる幸せに、心からの笑顔が自然と浮かぶ。

 すると、ライオス様はホッとした様子で深く息を吐いた。

 

「よかった……!次はあの本屋にも行こう。劇場で他の演目を観てもいいね。他に観たい演目はある?どこか行きたい場所があったら、どんな小さなことでも僕に教えてほしい……!」

「いいえ、ライオス様。門出のお祝いとしては充分すぎるほどでございます。これ以上何かをいただくわけにはまいりません。行き場のない私を助けてくださったこと、公爵邸での快適な暮らし、そして今日のこの素晴らしいお出かけの御恩は、決して忘れませんわ」

 

 私は、一生かかっても返しきれないほどの恩をくれたライオス様に、感謝を込めて深々と頭を下げた。

 

 しかし、私の言葉を聞いたライオス様は、なぜか酷く慌てた様子で身を乗り出してきた。

 

「……え?待ってくれ、クラリッサ!これは門出の祝いなんかじゃない!僕が君と一緒に行きたかった場所に、付き合ってもらっただけなんだ!だから次は、僕が君の行きたい場所に付き合う番だよ。どこか……ないかな?僕にできることがあったら、なんでも言ってほしいんだ!」

 

(あら……そうだったの……?私ったら、てっきり素晴らしい送別会を開いていただいたのだとばかり……。一人で勝手に勘違いしてしまって恥ずかしいわ。……でも、こうして相手を特別に思わせるようなエスコートを自然とやってのけるから、世の女性たちはライオス様に夢中になってしまうのね)

 

 まるで自分が主役になったかのように完璧にもてなしてくれたので、自分のための企画かと一瞬舞い上がってしまったが、ライオス様にとっては彼自身の用事のついで、あるいはお気に入りの場所に私を同行させただけだったようだ。

 

 その自意識過剰な勘違いを恥ずかしく思いつつ、どこか行きたいところはないかと切実な目で聞いてくる彼に対し、しばらく考えた後、私は今一番アドバイスが欲しい場所を思いついた。

 

「それなら……家を借りるにあたって、おすすめのエリアを教えていただけないでしょうか?私、この辺りはあまり土地勘がなくて……」

 

 その瞬間、ライオス様は真剣そのものの表情で身を乗り出すと、まるで国家の危機を論じるかのような気迫で言葉を紡ぎ出し始めた。

 

「ま、待ってくれクラリッサ。現在の王都の家賃の高騰ぶりを甘く見てはいけないよ。魔塔からいくら臨時収入が入るからといって、王都にまともな家を借りるとなれば、それを丸々家賃に回すことになる。非常に勿体無いよ。地方であれば家賃は抑えられるけれど、今度は移動に時間がかかって、肝心の研究に使える時間が少なくなってしまうだろう?……無理にここを出ていく必要なんて、どこにもないんじゃないかな?」

「え……?でも、いつまでも甘えるわけには……」

「それに、最大の問題は信用だ」

 

 ライオス様は、重大な魔導の講義でもするかのように、厳粛な口調でさらに言葉を重ねる。

 

「この王都では、国家公務員であるか、あるいは確実で持続的な収入があることを証明できない限り、保証人なしで物件を借りることは極めて難しいんだ。君はまだ共同研究を始めたばかりで、魔塔の正式な常任研究員ではない段階だろう?役所の煩雑な審査や手続きで無駄に時間を取られるより、研究が完全に軌道に乗るまでは、とりあえずこの公爵邸に住み続けるのが一番合理的だよ」

「あ……」

 

 言われてみれば、確かに一理ある。共同研究者に指名していただいたものの、私は魔塔の正式な職員にはなれない。前夫から離縁を告げられたばかりで私自身に財産もなく、実家の財政も心許ない状態では、社会的な信用が圧倒的に足りないかもしれない。手続きに追われて研究の時間を奪われるのは本意ではなかった。

 説得されつつある私に、ライオス様は逃げ道を完全に塞ぐように、さらに真剣な面持ちで言葉を繋いだ。

 

「ただ、公爵邸に独身の女性が長居するとなると、外聞が悪いのも事実だ。……それなら、現在の『婚約者』という名目をそのままにしておいた方が、周囲に変な邪推をされなくて都合がいい。お互いに研究や仕事に集中できるだろう?」

「名目を、そのままに……。ですが、それではライオス様にご迷惑が……」

 

 挨拶の際に公爵夫人から浴びせられた嘲笑、そして今日の劇場での周囲の評価。私を婚約者として据えている限り、ライオス様の非の打ち所のない評判に泥を塗ってしまう。

 それに、私を婚約者として据え置いたままでは、ライオス様に相応しい本物の婚約者候補を探すことも難しくなってしまうはずだ。

 

 あまりにも彼にメリットのない提案に、私は辞退を申し出ようとした。

 しかしそんな私を牽制するかのように、ライオス様は畳み掛けてくる。

 

「君の研究には、我が公爵家も出資している。集中できる環境を提供するのも出資の一部だと思ってくれればいい。それに……僕の方も、毎日毎日、大量に見合いの写真を送りつけられるのに辟易していたんだ。頼むから、僕を厄介な見合いから助けると思って、このまま婚約を継続してくれないかい?」

「ライオス様の助けにもなるのであれば、私にお断りする理由はありませんが……。本当によろしいのですか?」

「もちろんだよ!これで引っ越しの必要はなくなったね!」

 

(なるほど、『社交界の貴公子』ともなると、お見合いを断るだけでも一苦労なのね……)

 

 パッと弾んだライオス様の声を聞きながら、私は経験したことのない上流階級の苦労に、心の中でそっと同情した。確かに、今日のような完璧なエスコートをされた日には、世の令嬢たちがこぞって彼を放っておかないのも頷ける。

 

  何はともあれ、これで直近の引っ越し問題が解決したことに、私はホッと胸を撫で下ろすのだった。

 

 *

 

 その夜。公爵邸でクラリッサと共に夕飯を終え、自室に戻ったライオスは、己の不甲斐なさと、それでもクラリッサとの婚約を繋ぎ止めた喜びに、枕に顔を埋めてのたうち回っていた。

 

(俺の馬鹿!好きだから結婚して欲しいんだとちゃんと伝えるはずだったろう!?なんでこんな、完璧にビジネスライクな利害一致の交渉に着地させてるんだ!!)


 どうもクラリッサの前では、諜報活動のために磨き上げたはずの自分の魅せ方が上手く使えない。

 結局、家庭教師のためだけの婚約という勘違いを訂正するどころか、一言も本当の想いを伝えられず、ただの「便利な偽装婚約の延長」にしてしまった己のヘタレさ。それでも、クラリッサがこの家から出て行ってしまうという最悪の未来だけは阻止できた安堵。

 二つの感情の狭間で、有能な諜報員であったはずのライオスは、自分の感情の制御もできずにただただ悶えるのだった。

 

 *

 

 一方、就寝の準備を終え、自身の部屋のベッドに横たわっていたクラリッサは、天井を見つめながら、トクトクと妙に早く脈打つ胸の音を聞いていた。

 

(いけないわ。しっかりしなくては……)

 

 今日一日、ライオス様が見せてくれた甘い眼差し、劇場で周囲の冷たい視線から庇ってくれた腕の熱、そして、ずっと昔に私が何気なく「観たい」と言った演劇を覚えていてくれた細やかな優しさ。

 それらが、惹かれてはいけないと必死に自制しているはずの心に、じわじわと、抗いようもなく染み込んでくる。

 

 そしてそんな自分の想いを都合よく補完するかのように、ある微かな可能性が頭をもたげていた。

 

(……なぜライオス様は、ここまで『婚約者』という形に拘るのかしら……? もしかして。本当に、もしかしてだけれど……ライオス様は、私のことを……?)

 

 脳裏からどうしても離れないのは、劇場で彼が見せたあの赤面した顔だ。いつもなら、歯の浮くような甘いセリフを呼吸をするように紡ぐ彼が、たった一言漏れ出た「かわいい」という言葉に、本気で狼狽して赤くなっていた。

 

 あれは決して、社交界用の器用なお世辞などではない――そう思ってしまうような、妙な説得力があったのだ。

 

 その姿によって、私はライオス様がまだ幼かった頃、魔法で小さな薔薇を作って私に手渡してくれた時のことを、鮮烈に思い出していた。

 

 私はベッドから起き上がると、クローゼットの引き出しを開け、その奥底に隠していた小さな木箱の鍵を開けた。

 そこには、前夫の元へ嫁ぐ際にも持って行き、そしてあの家を着の身着のまま追い出されたあの日にも必死に持ち出した、私にとって命の次に大切な宝物が入っている。

 

 箱の中からそっと取り出したのは、魔力によって結晶化された、色褪せることのない赤い薔薇だった。

 

 いつからか、毎年私の誕生日にライオス様が手渡してくださるようになっていたこの薔薇は、アンターナル公爵家の家紋を象徴する花だ。年を重ねるごとに、彼の魔力の成長と共にメキメキと精巧に、美しくなっていったこの結晶は、まるでライオス様自身の成長の軌跡のようで、私は毎年、密かにこれを貰うのを楽しみにしていた。

 

 この薔薇を私に手渡してくれた時の、幼い彼の、もじもじとした照れくさそうな表情。

 その愛らしい顔が、今日の劇場の暗がりで赤くなっていた彼に、あまりにもぴったりと重なった。

 

(自らの魔力で創り出した家紋の花を贈る行為が、この国において『プロポーズ』を意味することは知っていたわ。でも、あの時は、幼い彼なりの背伸びしたプレゼントなのだと思って、深く考えずに受け取っていたけれど……。もし、あれが最初から……)

 

 一瞬、心臓が跳ね上がるような、大それた期待が頭をよぎる。

 けれど、私はすぐにぎゅっと目を閉じ、小さく頭を振ってその贅沢な妄想を必死に打ち消した。

 

(いいえ、そんなはずはないわ。あの方はそれこそ他国のお姫様とだって結婚できるような高貴なご身分で、誰もが羨む輝かしい美貌もお持ちの方。対する私は、貴族の妻としての価値がないと公に証明され、捨てられた、見た目も平凡な女。これは単に、彼が昔の先生に対して、親切心がすぎて甘やかしてくれているだけ。……勘違いして、勝手に期待しても、傷つくだけよ……)

 

 自嘲気味に考え直し、私は宝物を大切に箱へ戻すと、逃げるように布団を頭まで被った。

 

 お互いに、相手の心の真意にあと一歩のところで気づかぬまま、じれったい夜の静寂だけが、二人を静かに包み込んでいた。

 王都で家を借りるにあたっては、審査は他の地域より厳しいものの、クラリッサの今後の収入見込みを示した契約書を見せれば普通に契約可能です。

 ライオスが屁理屈を捏ねているだけで、実は家賃も払えないほど高い物件ばかりではないですよ。

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