20話:溢れた本音と予想外の反応
馬車が静かに停まり、扉が開かれた。目の前に広がっていたのは、私がずっと憧れ、そして行くことはないと諦めていた王立劇場だった。
「ら、ライオス様、まさか……ここで演劇を観覧できるのですか……?」
「随分前だけど、僕の家庭教師をしてくれていた時に、観たいと言っていたよね?」
「そんな昔のことを、覚えていてくださったのですか……!」
「クラリッサが僕の元を去ってしまってからも、君のことは片時も忘れたことはなかったよ」
寂しげに細められたその翡翠の瞳は、彼がまだ幼い頃、お母様がいなくて寂しい夜に見せた面影を思い起こさせた。けれど、今の彼の微笑みには、かつての愛らしさの代わりに、どこか陰りを帯びた大人の魅力が含まれている。
その色香に不意に当てられた私の頬は、思いがけず熱を帯びてしまった。
ここはチケットの入手すら困難な超人気劇場。学生時代には、「ここのチケットを手配してくれたなら本命の証」などと、デートスポットとしても女子生徒の間で根強いブームを誇っていた。
当時からデートなどには一切縁がなかった私だが、それでも長年にわたって演じ続けられている不朽の名作や、時代の最先端を行く話題作には密かに心を惹かれていたものだ。
けれど、一介の貧乏男爵家ではチケットの入手など夢のまた夢。その後に嫁いだクルメリオン侯爵家では、私のための外出などあり得ない環境だった。だから、私の人生で王立劇場で演劇を見る機会なんて一生訪れないのだと、とっくに諦めていたのだ。
ライオス様がエスコートのために差し出してくれた温かい手を借りて馬車を降り、劇場内へと足を踏み入れる。
(素敵……!憧れの王立劇場での観劇が、本当に叶う日が来るなんて……!)
吹き抜けの天井から吊り下げられた巨大な水晶のシャンデリアが、大理石の床を黄金色に照らしている。壁一面に飾られた豪奢な絵画やベルベットの重厚なカーテンに、私はすっかり圧倒されて目を奪われていた。
しかし、じっくりと中を観察する時間は与えられなかった。
社交界のスターであるライオス様が劇場に姿を現した瞬間、それまで賑やかだったロビーが水を打ったように静まり返り、次いで、さざ波のような凄まじいどよめきが沸き起こったのだ。
「ご覧になって、ライオス様よ……!」
「お隣にいらっしゃる女性はどなた?お見かけしたことはないけれども……。貴女はご存じ?」
「いいえ、存じ上げないわ……。でも、ライオス様がお昼の演目にいらっしゃるなんて、本命をお決めになったとでも言うの……?」
「いやいや、美人で有名なハクノシロ侯爵令嬢や、キレンハルク伯爵令嬢とのお噂もあるのよ。あの方では……ねぇ?」
向けられるのは、容赦のない嫉妬と羨望。そして、何より「あの方の隣に立つに値するのか」という、鋭く値踏みするような視線。
耳を澄まさずとも聞こえてくる冷ややかなひそひそ話に、私の身体は冷たく硬直していった。
周囲の若く可憐な令嬢たちからは、「あの地味な女になら勝てる」と言いたげな侮蔑の混じった安堵と、「なぜあんな女を?」という突き刺さるような疑問の目線が容赦なく降り注ぐ。
(ああ、そうだわ。私は……)
前夫の家で五年もの間、「役立たずの穀潰し」「子供も産めない恥晒し」となじられ、陽の当たらない暗い部屋に押し込められていた記憶が、冷たい泥のように足元から這い上がってきて息が苦しくなる。
隣を歩くライオス様は、非の打ち所がないほど完璧な美貌と地位を持つ、未来ある青年。
それに対して私は、子を成せず不名誉な形で離縁された、何の価値もない女。
はっきりと口に出されなくても、人々の目線が、まるで鋭い刃物のように私の心を削っていく。自分と彼を比べる周囲の冷ややかな空気感に、私は強烈な引け目と恐怖を感じ、ただただ視線を落として身を縮めるしかできなかった。
「クラリッサ」
ハッと我に返ると、ライオス様がそっと私の肩を抱き寄せ、周囲の視線を遮るように大きな身体で守ってくれていた。
その瞳には、周囲の人間など一切映っていなかった。ただ、私だけを真っ直ぐにその瞳に収めて、耳元で低く囁く。
「僕にとっては、ここにいる誰よりも君が一番美しい。彼らの戯言に、耳を貸す価値はないよ。……それでも、もしこの取るに足らない声が君を傷つけたというなら、相応の制裁を与えよう」
ぞっとするほど温度の下がった声に驚いて顔を上げると、ライオス様はひどく妖艶に、しかし冷たい怒りを宿した瞳で微笑んでいた。
「わ、私は大丈夫ですわ……!」
「本当に?何人かはもう、どこの家の者か覚えたよ。君を傷つけた者には、きっちり罪を償ってもらわないとね」
「本当に、本当に大丈夫です……!ですから、そんな恐ろしいことはおやめください……っ。私がライオス様に並び立つのに相応しくないのは事実ですし……」
慌てて止める私だったが、ライオス様は納得しきってない様子だった。
「クラリッサは優しいね。君がそういうなら……、今回は許してあげることにするよ。ただ、クラリッサ。君は本当に素敵な女性だ。並び立つに足りないのはむしろ僕の方だ。今も、君の隣に並び立てるよう必死なんだよ」
「そんなはずはありませんわ。ライオス様は本当に立派に成長されました」
「まあ、君の魅力に気づいた羽虫がこれ以上寄ってきても面倒だし、君の素晴らしさは僕だけが知っていれば充分だけどね」
そう言って少しだけ表情を和らげたライオス様は、私の肩を優しく抱いたまま、公爵家にのみ許された特別な専用通路の方へ私をエスコートした。
(どうしてライオス様は、こんなにお怒りになられたのかしら……)
仮とはいえ婚約者への批判を、公爵家の権威を貶められたと捉えたのだとしたら、立場を弁えろと周囲へ釘を刺すのは高位貴族として必要な行為だ。
けれど、ライオス様の怒りの矛先は、公爵家の名誉を毀損されたことよりも、私個人へ向けられた心無い言葉そのものに対して向けられていたように感じられて仕方がなかった。
(人の痛みのためにあんなに怒れるなんて、本当にお優しく、立派に成長なさって……。だからこそ、私のような訳ありの者がこれ以上彼の隣にいて、泥を塗るようなことがあってはならないわ。一刻も早く彼をこの視線から解放して差し上げなくては……)
かつての教え子が、こんなにも優しく強い大人になってくれた。それだけで、家庭教師としての恩返しは充分すぎるほど貰っている。
私の手を引き、力強くエスコートをしてくれる彼の大きな背中を斜め後ろから見上げて、私はしみじみと感謝と彼を解放する決意を深めるのだった。
*
ライオス様が手配してくださっていたのは、一般の席とは隔離された、一際きらびやかな最上階の特別貴賓席だった。
周囲の視線が一切気にならないその特等席で、私は時間を忘れて、心ゆくまで素晴らしい演劇の世界に没頭することができていた。
(……はっ!いけない!私ばかり楽しませていただいて……!ライオス様は楽しんでいらっしゃるかしら?)
ふと我に返って隣を盗み見ようとした瞬間、劇場の演奏に紛れて、掠れるような小さな呟きが聞こえた。
「……かわいい……」
(あら?主演の女優さんのことかしら?確かに、本当に綺麗なお方ですものね……!)
ライオス様も演劇を楽しんでいそうだという安心感と、演者への感動を共有しようと私が隣を振り向いた、その瞬間。
なぜか舞台ではなく、じっと私を熱を帯びた柔らかい笑顔で見つめていたライオス様と、バチッと正面から視線が交差した。
するとライオス様は、美しい翡翠の目を見開いて私が振り向いたことに激しく動転し、パッと片手で自身の口元を押さえた。
「……っ!?ご、ごめん……!劇に夢中になっている君の表情が、あまりにも可愛くて、思わず……!集中を邪魔してしまってごめん」
「……えっ……?」
一瞬、ライオス様が何を言っているのか理解できず、思考回路が完全に停止した。
遅れて彼の言葉が脳内で再生され、私の脳があり得ない仮説に辿り着いた。
(ライオス様の今の言葉は……、私に対しておっしゃったの……!?)
信じられないような出来事に、カッと顔が熱くなる。都合のいい空耳か、あるいはからかわれたのかと訝しみながらライオス様を見上げると、彼は口元を押さえたまま気まずそうにわずかに顔を背けてしまった。
けれど、その横顔で確認できる彼の耳が、劇場の薄暗い照明越しでもはっきりと分かるほど、真っ赤に染まっているのが見えた。
そこからの後半の演目は、演者も舞台音楽も歌も、どれも間違いなく一流で素晴らしかったはず……だった。
しかし、すぐ隣からじっと注がれる熱い視線を肌に感じるような気がして、けれど気恥ずかしさから確かめることもできず、私の意識は完全にうわの空になってしまった。
演目の内容については、どこか雲の中にいるような曖昧な記憶しか残っていない。
ただ、自分の顔が、耳が、ひたすら沸騰しそうなほど熱かったことだけを、強烈に覚えている。




