15話:共同研究の誘い
「ライオスはいるか!?」
ライオス様が討伐隊から無事に戻られた、その翌朝のこと。
朝食前の静寂に包まれていた公爵邸の玄関扉が、乱暴に開かれた。
現れたのは、息を荒くしたイブリアス様だ。
ちょうど私は、朝露に濡れた見事な白薔薇を選び、玄関ホールの花瓶に活けようとしていたところだった。驚いて振り返り、ご挨拶をと思ったのだが――それよりも早く、私に気づいた彼が、凄まじい勢いで詰め寄ってきた。
「ライオスのハンカチに施されていたという、防御魔法陣を編んだのは君だな!?」
「お、おかえりなさいませ、イブリアス様。刺繍を施したハンカチでしたら、確かに以前ライオス様にお渡しいたしましたが……」
突然の気迫に気圧されながらも答えると、イブリアス様の翠色の瞳がぎらりと輝いた。
「実物はどこにある!?制作期間と、編み込む際に使用した魔力量はどれほどだ?組み込まれていた多重構築の術式は魔力効率が著しく高かったと報告を受けているが、一体どういった回路構成であれば、あのサイズに収まるんだ!?」
「しょ、少々お待ちください……!質問が早すぎて……っ。その、ハンカチ自体はライオス様がお持ちのはずで……」
「再現は可能か?英雄卿と聖女様から直々に術式の実用化に向けた研究依頼が飛び込んできたんだ。今すぐ共同研究を始めよう!場所は私の研究室を好きなだけ使って構わない!」
まくしたてるや否や、イブリアス様は私の右手首を強引に掴み取った。そのまま玄関前に待機させている馬車へと連行せんばかりの勢いだ。
私は慌てて、その場に踏みとどまって声をあげる。
「お、お待ちください、イブリアス様!リリスティア様の家庭教師のお仕事も、先日お休みをいただいたばかりですし、せめて、ライオス様にお話ししてからでなければ参れません……!」
ベリリアス様が置いていった帳簿の処理に没頭するため、リリスティア様の家庭教師は三日間も休ませていただいたばかりなのだ。 これもリリスティア様の温かいご厚意によるもの。これ以上、私事で突発的な不義理を重ねるわけにはいかない。
必死にイブリアス様を説得しようと言葉を紡いだ――その瞬間。
背後から、不意に腰に腕が回され、私の言葉は驚きに飲み込んだ息とともに喉の奥へと消えた。
「そうですよ、兄上。研究助手の話は、私を通してほしいと、前にお伝えしたではありませんか」
「ら、ライオス様……!」
低く、しかし甘やかな声が耳元で鼓膜を揺らす。
いつの間に現れたのだろう。ライオス様が私の背後にぴったりと寄り添い、その逞しい左腕を私の腰へと滑り込ませていた。
「それと――俺の婚約者に、気安く触らないでください」
ぴり、と。凍りつくような威圧感が朝の空気に混ざる。
ライオス様は私を後ろから包み込むように抱きすくめると、イブリアス様に掴まれていた私の右手首に、自身の掌をそっと重ねて引き離した。
「ちょうどよかった、ライオス。お前が遠征に携行していたハンカチは、クラリッサ嬢からの贈り物で間違いないな?先ほども言ったが、英雄卿と聖女様から直々に、魔法陣の実用化に向けた研究の正式な要請があった。彼女を筆頭共同研究者に指名する」
手首は解放されたものの、イブリアス様は一歩も退く気配を見せない。
「待ってください。俺はまだ、その話を詳しく聞いていません」
「今話しているだろう。それに、今の私は魔塔の研究員として、国家の利益のために動いている。お前の個人的な許可は求めていない。正式な共同研究者の申請書もすでに用意している」
イブリアス様が纏う濃紫のローブ。それは、この国の魔術研究の最高峰、魔塔に所属する一握りの鬼才だけが着用を許される特別なものだ。
研究者としての義務を盾に一歩も譲らないイブリアス様と、私を抱きしめる腕にいっそう力を込めるライオス様。
兄弟の視線が、私の頭上で激しく火花を散らす。
その緊迫した空気を打ち破ったのは、唐突に響いたのどかな鳴き声だった。
「クルッポー」
どこからか屋敷へ紛れ込んだらしい、一羽の純白の鳥が、ライオス様の肩にふわりと舞い降りる。
よく見れば、その細い脚に小さな筒が括り付けられている。ライオス様が手際よく紙片を取り外すと、白い鳥はきらきらとした光の粒へと融け、朝の空気の中に消えてしまった。
(なんて高度な情報伝達魔術なのかしら……!)
魔力の残滓の美しさに思わず感嘆していると、もたらされた便りに視線を落としていたライオス様が、ふっと表情を和らげて顔を上げた。
「兄上、俺も王宮へ向かう用事ができました。ひとまず、例のハンカチを持って一緒に参りましょう。――クラリッサ、共同研究については、もう少し詳しい条件を聞いてから考えても遅くはないよ。魔塔で詳細を確認しよう」
「は、はい……!」
真上から覗き込んできた、吸い込まれそうなほど美しい瞳に、私はこわごわと頷くことしかできない。
(……ところで。なぜ私は、未だにこうして抱きしめられているのかしら……?)
ライオス様がイブリアス様を止めてくれたのも、共同研究に慎重なのも、きっと私が家庭教師としての義務を果たせなくなるのを心配してくれたからだろう。それは分かる。
けれど、この私の腰をがっちりとホールドして離さない、熱い腕の理由はなんなのだろう。
(いいえ、深く考えては駄目よ、クラリッサ。ライオス様にとっては、これくらい親愛の情を示す、挨拶代わりのスキンシップに過ぎないのだわ。年上の私が変に意識してしまうなんて、それこそ自意識過剰で恥ずかしいわ……)
彼にとっては挨拶のようなスキンシップで、きっと、他のご令嬢方にも、これくらい自然に、息をするようにエスコートをなさるに違いない。
そうよ、他の、もっと若くて美しい、相応しいご令嬢たちにも――。
その光景を頭の隅で思い浮かべた瞬間、胸の奥が、ツキリと鋭い音を立てて軋んだ。
私はその小さな痛みの正体から、そっと目を逸らすように、気づかないふりをして呼吸を整えた。




